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Step 09 認識する前に、私たちはすでに世界にいる

このStepで答える問い

「物を客観的に見つめること」——主観が客観を認識するという営みは、本当はどこから成り立っているのか?


まず3行でいうと

  1. §13 は「うちにあること」を、あり方を一つだけ選んでそこから見せます。選ばれるのは世界を認識することです。それが最も重要だからではなく、伝統的に、主観と客観をつなぐ代表的な関係として扱われてきたからです。
  2. 「主観はどうやって自分の内側から外へ出て、客観に届くのか」——§13 の診断はこうです。この問いが解けないのは、答えが難しいからではありません。 出発点で、認識しているものの存在の仕方が規定されないまま置かれているからです。
  3. 認識は、世界との関わりを新しく作るのではありません。すでに関わっているところから、手を止めて、ただ眺めるほうへ切り替わることで成り立ちます。認識は土台ではなく、土台の上に立つ一つのあり方です。

前のStepから

Step 08 で、「うちにあること(In-Sein)」が取り出されました。

  • 水がコップのうちにある、というときの「うちに」ではない
  • 住み慣れている、馴染んでいる、気にかけて関わっている、というあり方のほう
  • そしてこれは現存在の性質ではなく、実存範疇である

Step 08 の最後に、§12 は位置づけを一つ置いていました。認識は「うちにあること」の一つのあり方であって、その根拠ではない。

しかし、そこでは結論が置かれただけでした。§13 はこれを正面から扱います。


今回なぜこの問題が必要なのか

まず、言葉の確認からです。

ここでいう「認識」は、むずかしいことではありません。ものを観察したり、考えたりして、それについて知識を得ることです。目の前のコップを見て「これは陶器だ」と分かる。本を読んで「そういう仕組みだったのか」と分かる。そういう場面のことです。

そして §13 が言おうとしているのは、こういうことです。ハイデガーは、まず知識を作ってから世界とかかわる、とは考えません。

この言い方は、私たちの常識と正面からぶつかります。

私たちはふつう、こう考えています。まず自分がいて、外に世界がある。 見たり聞いたり考えたりすることで、その世界のことが分かってくる。認識とは、自分と世界をつなぐ働きである。

この絵は、たいへん強力です。近代の哲学の多くが、この絵の上に建てられてきました。そして私たちの日常の実感にも、よく合います。

だからこそ、「認識は土台ではない」という主張を、結論だけ受け取るわけにはいきません。 どこがどうずれているのかを、順を追って見る必要があります。

§13 がやっているのは、まさにそれです。


原典で起きていること

なぜ「認識」が選ばれるのか

§13 は、「うちにあること」を一つのあり方によって示す、という進め方を取ります。そして選ばれるのが世界を認識することです。

理由は §13 自身が述べています。認識という営みは、伝統的に、主観と客観をつなぐ代表的な関係として扱われてきたからです。

本連載からの補足です。ここで選ばれているのは、いちばん見えやすいところではなく、いちばん手強いところです。認識がそこから派生していると示せるなら、それより後の話は、より簡単になります。この読み方は本連載による整理であり、§13 が明示している言葉ではありません。

出口のない部屋、という問いの形

認識を「主観の内側で起きていること」として立てると、どうなるでしょうか。

すぐに、有名な問いが立ち上がります。この認識する主観は、どうやって自分の内側の領域から出て、外にある別の領域へ届くのか。

そして問いは分岐します。

  • 出て行くのだとしたら、どうやって出るのか
  • 出て行かないのだとしたら、届いているとどうして分かるのか
  • そもそも、外に何かがあるとどうして言えるのか

この問いには、どれだけ精巧な理論を組んでも、終わりが来ません。

§13 の診断は、はっきりしています。問いが解けないのは、答えが難しいからではありません。 出発点で、認識しているものがどういう仕方で存在しているのかが規定されないまま置かれているからです。

「内側がある」と決めてかかった瞬間に、「外へ出る」という問題が自動的に作られます。問題を作ったのは、答えの側ではなく、問いの立て方の側です。

では、認識は実際にどう成り立っているのか

§13 は、認識を否定するのではなく、どこから成り立っているのかを記述します。

第一に、認識は現存在のあり方の一つです。 そしてそれは、すでに世界のもとにあることの上に立っています。

第二に、この「すでに世界のもとにある」は、物をじっと見つめることではありません。 作る、扱う、直す、片づける、そういう関わりのほうです。

ここで言葉を一つ止めておきます。「認識より前」と言っていますが、これは時間の前後の話ではありません。 「気づく数秒前に何かが起きている」という意味ではない。そうではなく、認識が成り立つには、すでに世界とかかわっていることが要るという、成り立ちの順番の話です。

第三に、認識が立ち上がるためには、その関わりがいったん止まる必要があります。 手を止め、作ることをやめる。§13 はこれを、関わりが差し引かれたあり方として描きます。何かが加わるのではなく、何かが控えられることによって、認識の場所が空くのです。

第四に、手を止めたところで、ただそのもとにとどまることが起きます。 そしてそこで、目の前にあるものが見て取られます

第五に、見て取られたものは「〜として」語りかけられ、語り合われます。 「これはこういうものである」。ここから規定が生まれ、言明が生まれ、そして言い残され、覚えておかれるものになります。

認識しているときも、現存在は外にいる

§13 の結論は、強い言い方で置かれます。

認識において、現存在は自分の内側から出ていくのではありません。 認識しているときも、現存在はすでに外にいます。認識されているそのもののもとに、すでにいるのです。

そして逆もまた言われます。自分の内へ引きこもって考えているときでさえ、現存在は世界のうちにいます。 内へ引きこもるというあり方も、世界のうちにあることの一つの形だからです。

出て行ったり戻ったりする、という絵そのものが成り立ちません。出発点で、すでに外にいるからです。

派生しているとは、劣っているということではない

ここで釘を刺しておく必要があります。

§13 は、認識を貶めていません。ある営みが派生したものであるということは、土台の上に立っているということであって、価値が低いということではありません。

§13 がやっているのは順序の訂正です。何が先で何が後かを直しているのであって、何が偉くて何が偉くないかを決めているのではありません。


具体例

ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。

キーボードを打っているとき、キーの一つ一つを見てはいません。指が勝手に動いています。「Aのキーはここにあり、色は黒で、正方形に近い形をしている」——そんなことは、打っているあいだ一度も意識に上がりません。

ところが、キーが一つ引っかかったとします。手が止まります。

そして初めて、そのキーを見ます。形。色。角の欠け。隙間に入ったほこり。

このとき、キーが新しく現れたのではありません。 ずっとそこにありました。変わったのは関わり方のほうです。使っていた関わりが止まり、眺める関わりに切り替わりました。

そして順序が大事です。眺めることのほうが先にあって、そこから使うことが始まったのではありません。 使っている関わりが先にあり、それが止まったところで、眺めることが立ち上がりました。

この例が示しているのは、関わりが止まったところで眺めることが立ち上がるという一点だけです。なお、道具が使えなくなる場面そのものを本書が正面から扱うのは、もっと先の節です。ここではあくまで、関わりの切り替わりを見るための例にとどめます。


論証を整理する

問い
  主観が客観を認識するという営みは、どこから成り立っているのか

前提
  Step 08:「うちにあること」は位置ではなく、馴染みと関わりのあり方である
  Step 08:それは現存在の性質ではなく、実存範疇である

推論
  (1) 「うちにあること」を、一つのあり方によって示す。
      選ばれるのは「世界を認識すること」。
      伝統的に、主観と客観をつなぐ代表的な関係として扱われてきたからである
  (2) 認識を「主観の内側で起きていること」として立てると、
      「どうやって内側から外へ出るのか」という問いが立ち上がる
  (3) この問いが解けないのは、答えが難しいからではない。
      認識しているものの存在の仕方が規定されないまま出発しているからである
      → 「内側がある」と置いた時点で「外へ出る」問題が自動的に作られる
  (4) 実際の順序はこうである。
      すでに世界のもとにある(作る・扱う・直す・片づける)
        → その関わりが差し引かれ、手が止まる
        → ただそのもとにとどまる
        → 目の前にあるものが見て取られる
        → 「〜として」語りかけられ、規定され、言明になる
  (5) したがって認識において、現存在は内側から出ていくのではない。
      認識しているときも、現存在はすでに外にいる。
      内へ引きこもって考えているときも、やはり世界のうちにいる
  (6) 派生したあり方であることは、価値が低いことを意味しない。
      訂正されているのは順序であって、価値の順位ではない

結論
  認識は、世界との関わりを新しく作るのではない。
  すでに関わっているところから、手が止まることによって立ち上がる、
  一つのあり方である

次の問い
  では、すでに関わっている当のもの——「世界」とは、いったい何なのか

重要語

  • 世界を認識すること(Welterkennen): §13 が「うちにあること」を示すために選ぶ、一つのあり方。伝統的に主観と客観をつなぐ代表的な関係として扱われてきたため、ここで取り上げられる。
  • 見て取ること(Vernehmen): 手が止まり、ただそのもとにとどまるところで起きること。見て取られたものは「〜として」語りかけられ、語り合われ、規定され、言明になる。
  • 派生したあり方: 土台の上に立っているあり方。劣っているという意味ではありません。 §13 が訂正しているのは順序であって、価値の順位ではありません。
  • In-Sein(うちにあること)/In-der-Welt-sein(世界内存在): Step 08 から継続。
  • Welt(世界): 本Stepでも「世界のもとにある」という形で使われますが、この語が何を指すのかは、まだ規定されていません。 その問いは次の Step 10(§14)で正面から立てられます。

誤解しやすい点

  • 「認識には意味がない」ではありません。 派生している、というのは、土台の上に立っているという意味です。§13 は認識の価値を下げていません。

  • 「科学は間違っている」ではありません。 Step 03・Step 07 と同じ注意です。ここで扱われているのは順序であって、成果の当否ではありません。

  • 「客観的なものは存在しない」ではありません。 §13 は客観を消していません。内側と外側という空間の絵で認識を立てることを、退けているだけです。

  • 「脳や心のはたらきは関係ない」ではありません。 §13 が否定しているのは、脳や心の研究ではなく、「内側の領域から外へ出る」という問いの立て方のほうです。

  • 「手を止める」は、怠けることではありません。 §13 が描いているのは関わりの一つの様態であって、態度の善し悪しではありません。

  • 「日常の関わりのほうが正しい認識だ」ではありません。 どちらが正しいかという話ではなく、どちらが土台かという話です。

  • 「認識する前は世界を知らない」ではありません。 §13 の主張はその逆です。認識が始まる前から、すでに世界のもとにいます。だからこそ認識が可能になります。

  • 「認識より前」は、非理性的なもの・無意識・本能・感情・直感のことではありません。 §13 が言っているのは、理性の手前に別の心のはたらきがある、という話ではありません。認識が成り立つための順番の話です。

  • 「認識より前」は、時間の前後でもありません。 「見つめる数秒前」という意味ではなく、認識はすでに世界とかかわっていることの上に成り立つ、ということです。


自分で考えてみる

  1. 今日あなたが「よく見た」ものを一つ思い出してください。それをよく見ることになった直前に、何が起きていましたか。
  2. 「自分の内側」という言い方を、あなたはどんなときに使いますか。その「内側」には、外との境目がありますか。

次のStepへ

これで第二章が終わります。二つのことが決まりました。

  • 「うちにあること」は、位置ではなく馴染みと関わりのあり方である(§12)
  • 認識は、その上に立つ一つのあり方である(§13)

しかし、Step 08 で挙げた三つの切り口のうち、第一のものがまだ手つかずのまま残っています。

「世界のうちに」の——その「世界」とは、いったい何なのでしょうか。

ここで、いきなり難しいことが起きます。世界について語ろうとすると、私たちはつい、世界のなかにあるものを数え上げ始めます。山、川、建物、人、道具。しかし、いくら数え上げても、そこに出てくるのは世界のなかにあるものであって、世界そのものではありません。

では、どうやって近づけばよいのでしょうか。

次の Step 10 から第三章に入ります。そして §14 が最初にやるのは、世界を描いて見せることではありません。「世界を問う」とは、そもそも何を問うことなのかを決めることです。


出典・参考資料

本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-09-evidence.md を正本とします。

以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。

REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。

  • 第一篇 §13(H. 59-62) — 「うちにあること」を、その上に立つ一つのあり方によって示すこと。選ばれるのが世界を認識することであり、それが伝統的に主観と客観をつなぐ代表的な関係として扱われてきたこと。認識を主観の内側に置いたときに立ち上がる問い(内側の領域からどうやって外へ出るのか)と、その問いが解けないのは認識しているものの存在の仕方が規定されないまま出発しているからであるという診断。認識がすでに世界のもとにあることの上に立っていること。認識が立ち上がるには関わりが差し引かれる必要があり、手を止めてただそのもとにとどまるところで見て取ることが起き、見て取られたものが「〜として」語りかけられ、語り合われ、規定され、言明になること。認識しているときも現存在は自分の内側から出ていくのではなく、すでに外にいること。内へ引きこもって考えているときも世界のうちにいること

章の所属について: §13 は第一部第一篇の第二章(§12-13)に属し、第二章はこの節で終わります。章の範囲は memo/20260828_存在と時間_原典構造マップ.md によります。

参考資料(本文に直接対応する引用はありません)

  • REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
  • REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
  • REF-11: Hubert L. Dreyfus, Being-in-the-World (MIT Press, 1991) — 認識を派生的なあり方として読む配列が、現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。