Step 04 なぜ最初に現存在(Dasein)を調べるのか
このStepで答える問い
他のすべての事物の中で、「人間」を最初に調べる優先権はなぜあるのか?
まず3行でいうと
- この存在者だけが、自分の存在そのものを問題にしながら存在している。石は「石であること」を気にかけないが、私たちは「どう存在するか」を気にかけずにいられない。
- だからこの存在者は、自分の存在について何らかの了解をすでに持っている。そしてその了解そのものが、この存在者のあり方の一部になっている。
- §4 が示す優位は、別々の長所が三つあるという話ではない。この存在者の存在構造から連続して出てくる、三つの水準での優位である。①実存という仕方である →②だから存在を了解しながら存在している →③だからあらゆる存在論が成り立つための条件である。「人間が偉いから」という理由は一度も出てこない。
前のStepから
Step 03 で、存在への問いの重みが確かめられました。
- どの学問も、自分の対象領域を先に決めたところから始まる
- その領域を規定する基礎概念は、当の学問の内部では根拠づけられない
- そこで対象領域そのものを問う作業(存在論)が要る
- そしてその存在論のほうが、「あるとはどういうことか」を明らかにしていなければ、根本において盲目にとどまる
これで、この問いが哲学者だけの内輪の関心事ではないことは分かりました。
しかし、Step 02 で空いた欄はまだ空いたままです。
問いの三要素のうち、問いかけられるもの(当たるべき先)は「存在者そのもの」と決まりました。けれど存在者は無数にあります。机も猫も数も昨日の出来事も存在者です。そのどれに問いかければよいのか。
§2 の末尾で候補は名指されていました。いま現に問いを立てている当の存在者、つまり私たち自身です。しかし「なぜこの存在者でなければならないのか」は、まだ示されていません。
今回なぜこの問題が必要なのか
ここを飛ばすと、この本はまるごと誤読されます。
「存在を問うために人間を調べる」と聞けば、多くの人はこう受け取ります。人間は特別な生き物だから。意識を持っているから。万物の霊長だから。
もしそういう理由だったら、『存在と時間』は人間賛美の書になります。
§4 が与える理由は、それとはまったく違う種類のものです。価値の話ではなく、問いの構造の話です。
原典で起きていること
学問もまた、人間のふるまいの一つである
§4 は、まず前の §3 から橋を架けます。
学問という営みは、宙に浮いて存在しているわけではありません。誰かが問い、調べ、書く。つまり学問は、この存在者のふるまい方の一つです。だとすれば、学問の基礎を問うことは、この存在者の存在を問うことに行き着きます。
「自分の存在が問題になっている」ということ
そのうえで §4 は、この存在者の際立った点を一つだけ挙げます。
この存在者は、ほかの存在者と並んでただ現れているだけではない。その存在において、その存在そのものが、この存在者にとって問題になっている。
短い規定ですが、ここに全部が入っています。
机は「机であること」を気にかけません。石は「石であり続けるかどうか」を問題にしません。それらはただ、そうであるだけです。
ところが私たちは違います。「これでいいのか」「このままでいいのか」——自分がどう存在しているかが、自分にとって問題になってしまう。
存在了解は、この存在者のあり方の一部である
自分の存在が問題になっているのなら、この存在者は自分の存在について何かを分かっていることになります。まったく何も分かっていなければ、問題にすることもできません。
ここが §4 のもう一つの要点です。この存在了解は、この存在者が余分に身につけた知識ではありません。この存在者がそもそもそういうあり方をしている、ということ自体です。分かっていることが、あり方の一部になっている。
Step 00 と Step 02 で見た「はっきりしないまま『ある』を了解している」という事実は、ここで初めて、なぜそれが可能なのかの側から説明されます。
Existenz(実存)
そのつど関わりうる、この当の存在を、ハイデガーは Existenz(エグジステンツ:実存) と呼びます。
日常の日本語の感覚とずれるので、ここは注意が必要です。「実存」は「実際に存在すること」ではありません。机が実際にあることを、ハイデガーは実存とは呼びません。 この語が当てられるのは、自分の存在に関わりながら存在している、その関わり方のほうです。
いちばん近いのに、いちばん遠い
§4 には、この連載を通して何度も戻ってくることになる逆説があります。
この存在者は、存在者としてはいちばん近い。ほかの誰でもなく、私たち自身がそれだからです。ところが、その存在のあり方の理解という点では、いちばん遠い。
近いことは、分かっていることを意味しません。むしろ、近すぎて見えていない。
優位は一つではない——三段になっている
ここまでを受けて、§4 はこの存在者の優位を整理します。ただし、別々の長所が三つ数え上げられるのではありません。 ここまでで見てきたこの存在者の存在構造から、連続して出てくる三つの水準での優位です。
術語を出す前に、普通の言い方で三段を並べます。
第一段:この存在者自身が、どうあるか。
ほかの存在者は、性質を備えてそこにある、という仕方で存在しています。この存在者は違います。自分の存在に関わりながら存在している。つまり、実存という仕方であるということ自体が、まず一つ目の際立ちです。
第二段:そのあり方から、何が出てくるか。
自分の存在に関わっているということは、その存在について何かを了解しているということです。だとすればこの存在者は、哲学を学ばなくても、意識していなくても、すでに存在について了解しながら存在している。存在論という営みを、素朴な形ですでにやってしまっている。これが二つ目です。
第三段:それが、ほかのすべての探究にとって何を意味するか。
Step 03 で見たとおり、どの学問も、自分の対象領域が何であるかをすでに了解したところから始まります。ではその了解は、どこで成り立っているのか。この存在者が存在を了解しているところでです。ほかに場所がありません。
だからこの存在者は、あらゆる存在論が成り立つための条件そのものになっています。これが三つ目です。
三段を並べ直すと、こうなります。
第一段 この存在者は、実存という仕方である
↓ だから
第二段 この存在者は、存在を了解しながら存在している
↓ だから
第三段 この存在者は、あらゆる存在論が成り立つための条件である
そのうえで術語を当てます。Step 03 で見た「存在者について(存在者的 / ontisch)」と「存在について(存在論的 / ontologisch)」の区別を使います。
| 段 | §4 の呼び方 | 何を言っているか |
|---|---|---|
| 第一段 | 存在者的な優位 | この存在者自身が、どうあるかの水準での際立ち |
| 第二段 | 存在論的な優位 | この存在者が、存在について了解している水準での際立ち |
| 第三段 | 存在者的かつ存在論的な優位 | 前の二つが重なることで、ほかのすべての存在論の条件になっている |
三段目が二つの語をまたぐのは、寄せ集めだからではありません。この存在者が「そういうあり方をしている(第一段)」ことと「存在を了解している(第二段)」ことが同じ一つの事態だから、その結果として条件になれる、ということです。
そして §4 は結論を置きます。すべての存在論がそこから発するほかない基礎存在論(Fundamentalontologie)は、この存在者の実存論的な分析のうちに求められなければならない。
存在者としてのこの存在者を、ハイデガーは Dasein(ダーザイン:現存在) と呼びます。呼び名は §2 の末尾で与えられていましたが、選ばれる理由がそろったのはここです。
普通の日本語で説明すると
言い換えると、こうなります。
存在への問いに答えるには、どこかの存在者に当たるしかない。ではどこに当たるか。
「あるとはどういうことか」がすでに問題になっている場所が、一つだけあります。それが私たち自身です。ほかの存在者は、そこで何も問題にしていません。
だから私たちから始めるのであって、私たちが優れているからではありません。唯一の入口だから入る、というだけのことです。
そしてこの入口には、やっかいな性質があります。自分自身のことなので近すぎて、かえって見えにくい。「自分のことは自分が一番よく分かっている」という感覚こそが、この分析の最大の障害になります。
具体例
ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。
長く住んでいる町ほど、「地図を描いてください」と言われると描けません。どの道がどこにつながっているかは体で知っているのに、線として引けない。旅行で一度行っただけの町のほうが、かえって説明できたりします。
この例が示しているのは、近いことと、それを言葉にできることは別だという一点だけです。それ以上のこと——たとえば「存在了解とは体で覚えた技能のようなものだ」といったこと——は、この例からは出てきません。そこはまだ、この Step では開かれていません。
論証を整理する
問い
無数の存在者のうち、なぜこの存在者から調べ始めるのか
前提1
学問も含めたあらゆる営みは、この存在者のふるまい方の一つである
前提2
この存在者は、その存在において、その存在そのものが問題になっている
(ほかの存在者にはこれがない)
推論
(1) 自分の存在が問題になっているなら、その存在について何かを了解している
(2) その了解は付け足しの知識ではなく、この存在者のあり方の一部である
(3) そのつど関わりうるこの当の存在を Existenz(実存)と呼ぶ
ここから優位が三段で積み上がる
第一段 この存在者は実存という仕方である … 存在者的な優位
↓ だから
第二段 存在を了解しながら存在している … 存在論的な優位
↓ だから
第三段 あらゆる存在論が成り立つための条件である … 存在者的かつ存在論的な優位
結論
基礎存在論は、この存在者(現存在)の実存論的な分析に求められなければならない
= 存在への問いにおける、この存在者の優位(三段すべてを含む)
次の問い
では、その分析はどこから始めればよいのか
重要語
- Existenz(エグジステンツ / 実存): 自分の存在に関わりながら存在している、その当の存在のあり方。「実際に存在すること」ではない。机が実際にあることは実存とは呼ばれない。
- Fundamentalontologie(フンダメンタールオントロギー / 基礎存在論): あらゆる存在論がそこから発するほかない、土台にあたる存在論。§4 は、それが現存在の分析に求められなければならないと結論する。
- Dasein(ダーザイン / 現存在): 自らの存在について問い、あらかじめ了解しながら存在している、私たち自身の存在のあり方。(Step 00・02 から継続)
- Seinsverständnis(ザインスフェアシュテントニス / 存在了解): 「ある」ということを、はっきりしないまま、すでに了解してしまっていること。(Step 00 から継続)
誤解しやすい点
-
「人間が宇宙でいちばん偉いから選ばれた」ではありません。 §4 が挙げるのは、この存在者においては自分の存在が問題になっている、という構造上の事実だけです。価値の順位づけは一度も出てきません。
-
「優位」は偉さの順位ではありません。 ここでの優位は、問いを解くうえでどこから手をつけるかという順序の話です。Step 03 で「哲学のほうが科学より偉いという話ではない」と述べたのと、同じ種類の注意です。
-
三つの水準は「だんだん偉くなる」階段ではありません。 また、数え上げられる三つの長所でもありません。①この存在者自身のあり方 ②そこから出てくること ③ほかのすべての探究にとっての意味、という話の水準の違いであり、一つの存在構造から連続して出てくるものです。上へ行くほど価値が高い、という並びではありません。
-
Dasein は「生物としてのヒト」ではありません。 また「意識」でも「心」でも「魂」でもありません。それらはいずれも、すでに何かの枠組みで人間を捉えた結果です。§4 が名指しているのは、自分の存在が自分にとって問題になっている、そのあり方のほうです。
-
「存在了解を持っている」は「存在が分かっている」ではありません。 はっきりしないまま了解してしまっている、という事実の指摘です。分かっているなら、この本は要りません。
-
「実存」を「実際に存在すること」と読まないでください。 日常語とずれています。
-
自分のことだから簡単、ではありません。 §4 は逆を言います。存在者としてはいちばん近く、その存在の理解という点ではいちばん遠い。近さは、この分析を楽にするどころか難しくします。
-
「循環しているのでは」という引っかかりについて。 存在を理解するために現存在を調べるが、その現存在の理解にはすでに存在了解が使われている——そう感じたなら、正確に読めています。ただしこれは Step 02 で見たとおり、はっきりしないままの了解を出発点として持ってしまっているという事実であって、そこから議論が始まります。この論点が正面から扱われるのは、後のStepです。
自分で考えてみる
- 「自分がどう存在しているか」を気にかけないでいることは、できるでしょうか。できないとしたら、それはなぜでしょうか。
- あなたが「自分のことはよく分かっている」と思っている事柄を一つ選び、他人に説明してみてください。どこで詰まりますか。
次のStepへ
調べる先は決まりました。私たち自身、つまり現存在です。
しかし、すぐに分析へ入れるでしょうか。
問題があります。私たちが「自分とは何か」を考えるとき、まっさらな頭で考えているわけではありません。人間とは理性的動物である。人間とは考える主体である。人間とは魂と身体からできている。——こうした枠組みを、私たちは知らないうちに受け取って使っています。
その枠組みごと現存在を見てしまえば、出てくるのは伝統の焼き直しです。せっかく入口にたどり着いたのに、そこから先で伝統の轍にはまることになります。
だとすれば、分析を始める前にやることが一つあります。受け取ってしまっている枠組みを、いったん点検すること。
次の Step 05 では、ハイデガーがその作業をどう構えたのかを見ます。
出典・参考資料
本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-04-evidence.md を正本とします。
以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。
また、本文中に引用形式(>)で置いた段落は、下に挙げた各節が述べている内容を本連載が日本語で要約したものであり、原典の逐語訳ではありません。
REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。
- 序論 §4(H. 11-15) — 存在への問いの存在者的な優位。学問がこの存在者のふるまい方の一つであること。この存在者はその存在において、その存在そのものが問題になっていること。存在了解がこの存在者のあり方の一部であること。そのつど関わりうる当の存在を
Existenzと呼ぶこと。この存在者が存在者的にはいちばん近く、存在論的にはいちばん遠いこと。三つの優位と、基礎存在論が現存在の実存論的分析に求められなければならないこと
参考資料(本文に直接対応する引用はありません)
- REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
- REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
- REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。