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Step 07 人間を調べる学問が、答えないままにしている問い

このStepで答える問い

人間を対象にする学問(人類学・心理学・生物学)と、これから始まる分析とは、どこで線が引かれるのか?


まず3行でいうと

  1. 心理学は心を、生物学は生き物としての人間を、人類学は文化のなかの人間を調べます。§10 は、その成果を争ってはいません。 答えられないまま残っているのは、「そもそも人間は、どんな仕方で存在しているのか」という、種類の違う問いのほうです。
  2. 伝統的な人間の規定には二つの出どころがあります。古代の「言葉を持つ生き物」と、神の像にかたどって造られたものという規定です。前者がラテン語へ移されると「理性を持つ動物」になり、人間は生き物という土台に理性を足したものとして規定されます。足される側の存在の仕方は、問われないままです。
  3. §11 はもう一つの取り違えを止めます。平均的な日常性は、未開の段階のことではありません。 日常性はどの現存在にもついてまわります。

前のStepから

Step 06 で、二つの規定が置かれました。

  • この存在者の「本質」は、その実存のうちにある
  • この存在者の存在は、そのつど私のものである(各自性

そしてもう一つ、守るべき区別が立てられました。現存在の存在規定(実存範疇)を、物の存在規定(範疇)から切り離すこと。物の記述の仕方を、この存在者に持ち込まない。

Step 06 の最後に残した問いはこうでした。では、その区別を守らなかったらどうなるのか。


今回なぜこの問題が必要なのか

区別を立てただけでは足りません。

人間を扱う学問は、すでにたくさんあります。生物学は人間を生き物として扱い、心理学は心のはたらきとして扱い、人類学は文化のなかの存在として扱う。どれも膨大な成果を上げてきました。

もしそれらが人間の存在の仕方をすでに解明しているなら、Step 06 で立てられた区別は不要になります。逆に、解明していないのだとしたら、どこがどう足りないのかをはっきりさせておかなければ、これから始まる分析は「心理学の哲学版」や「人間についての新しい学説」として読まれてしまいます。

§10 と §11 は、そのための境界線を引く節です。新しい主張を出す節ではなく、位置を確定する節だと考えてください。


原典で起きていること

争点になっているのは成果ではない

先に、いちばん誤解されやすい点を押さえます。

心理学は、心のはたらきについて調べます。生物学は、人間を生き物として調べます。人類学は、人間を文化のなかの存在として調べます。どれも大切な研究です。

しかし §10 でハイデガーが聞いているのは、それとは少し違うことです。

そもそも人間という存在者は、どんな仕方で存在しているのか。

この問いは、心理学の実験でも、生物学の観察でも、人類学の調査でも出てきません。出てこないのは、それらの研究が足りないからではありません。それぞれの学問が答えを出す種類の問いではないからです。

ですから §10 は、これらの学問が実際に観察や実験で確かめてきた成果を、否定してはいません。それらが積み上げてきた仕事そのものは、ここでの争点ではないと明示されます。

では何が争点なのか。これらの学問は、いずれも人間を対象として扱います。ところが、その対象がどういう仕方で存在しているのかという問いには、答えを与えないままになっている。§10 が指摘するのはこの一点です。

言い換えると、足りないのは結果ではなく土台のほうです。

伝統的な人間の規定は、どこから来たか

§10 は、私たちが受け取っている人間の規定に二つの出どころがあることを示します。

一つは古代ギリシャの規定です。 人間は「言葉を持つ生き物」(ζῷον λόγον ἔχον)である。これがラテン語へ移されると animal rationale、すなわち「理性を持つ動物」になります。

もう一つは神学に由来する規定です。 人間は、神の像にかたどって造られたものである。

この二つが結びついて、伝統的な人間の理解ができあがっています。

ここで §10 が目を留めるのは、規定の形のほうです。「理性を持つ動物」という規定は、足し算の形をしています。まず「動物」「生き物」という土台があり、そこに「理性」が足される。

問題は、足される側です。 「生き物」がどういう仕方で存在しているのかは、この規定のなかで一度も問われていません。問われないまま、暗黙のうちに、目の前にただ在る物と同じ在り方が当てはめられています。

この「目の前にただ在る」というあり方には、本書がのちに正面から名前を与えます。この Step ではまだ立ち入りません。

デカルトのところで起きたこと

Step 05(§6)で触れた点が、ここでもう一度出てきます。

デカルトは「私は考える」を出発点に据えました。しかし「私はある」のほうの「ある」は、規定されないまま残されました。考える働きの分析は精密に進んだのに、その働きをしているものがどういう仕方で存在しているのかは空欄のままだった、ということです。

これは古代の規定とは別のルートですが、空欄の位置は同じです。

「人格は物ではない」という前進と、その限界

§10 が次に取り上げるのは、近代のある考え方です。

その考え方はこう言います。人は物ではない。 部品でできた対象でもないし、性質をぶら下げた土台でもない。人は、何かに向かって現に働きかけているところに、そのつど現れている。写真に撮って並べられるようなものではない。

この立場を 人格主義(Personalismus と呼びます。

§10 はこれを前進として認めます。人を物として扱う道から、はっきり離れているからです。

しかし、と §10 は続けます。その働きそのもの、そして人そのものが、どういう仕方で存在しているのかは、やはり答えられていない。 「物ではない」と言うところまでは来た。では何なのか、というところで止まっている。

「生きている」というあり方

生物学が主題にする「生」についても、§10 は同じ形の指摘をします。

「生きている」というのは、独自のあり方です。目の前にただ在る物と同じではありません。 しかし、現存在と同じでもありません。

ここで §10 は順序に注意します。「生きている」というあり方には、現存在のほうから、差し引く形でしか近づけない。 つまり「もはや生きているだけ」というあり方として捉えるほかない、ということです。

順序が逆になると、話がひっくり返ります。「まず生き物という土台があり、人間はその上に何かが足されたものだ」という順序です。§10 が止めているのは、まさにこの順序です。

そして生物学は、この土台を自分の内部の作業では確保できません。 Step 03(§3)で見た構造がそのまま当てはまります。ある学問の基礎概念は、その学問の内部では根拠づけられない。

§11:日常性は、未開性ではない

§11 が止めるのは、別の種類の取り違えです。

Step 05(§5)で、分析の出発点は「平均的な日常性」に置かれました。ここで起きやすい誤読があります。日常性を、人間の未開の段階だと読んでしまうことです。手つかずの素朴な状態から始めて、そこから文明が積み上がっていく——そういう図式です。

§11 はこれを退けます。日常性は、発達の段階のことではありません。 日常性は現存在のあり方につねについてまわります。高度に組織された社会に生きる現存在にも日常性があり、未開の現存在には、その現存在なりの日常性があります。

§11 は民族学(Völkerkunde)についても触れます。未開の現存在についての資料は、民族学によってすでに与えられています。しかし民族学は、資料を集める前の段階で、すでに人間についての一定の概念を使って作業しています。つまり民族学もまた、現存在の分析をあらかじめ前提しているわけです。

最後に §11 は釘を刺します。観察や実験で確かめていく学問は、ハイデガーのような土台の議論が終わるのを待ちませんし、待つ必要もありません。しかし逆に、資料をさらに集めれば土台が手に入る、ということでもない。 足りないのは量ではないからです。


具体例

ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。

ある装置について、こう説明されたとします。「これは金属の箱に、センサーを一つ追加したものです」。

センサーの説明は、いくらでも精密にできます。検出範囲、応答速度、消費電力。しかし、「金属の箱」のところが実は分かっていなかったら、センサーの説明をどれだけ精密にしても、装置の説明は完成しません。足される側が空欄のままだからです。

「生き物に理性を足したもの」という規定は、これと同じ形をしています。足すほうをどれだけ詳しく調べても、足される側が問われていなければ、規定は完成しない。

この例が示しているのは、足し算の形をした規定には、足される側の未検討が残りうるという一点だけです。人間が装置だという話ではありませんし、生き物が金属の箱のようなものだという話でもありません。


論証を整理する

問い
  人間を対象にする学問と、これから始まる分析は、どこで線が引かれるのか

前提1
  Step 06:現存在の存在規定(実存範疇)は、物の存在規定(範疇)から切り離される
前提2
  Step 03:ある学問の基礎概念は、その学問の内部では根拠づけられない

推論(§10)
  (1) 人類学・心理学・生物学の実証的な成果は、ここでの争点ではない
  (2) しかしいずれも、扱っている当の存在者がどういう仕方で存在しているのか
      という問いに答えを与えないままである
  (3) 伝統的な人間の規定は「生き物 + 理性」という足し算の形をしており、
      足される側(生き物)の存在の仕方は問われていない
      → 暗黙のうちに、目の前にただ在る物と同じ在り方が当てはめられている
  (4) デカルトは「私は考える」を出発点にしたが、
      「私はある」の「ある」は規定しないまま残した(空欄の位置は同じ)
  (5) 人格主義は「人は物ではない」ところまで来たが、
      その働きと人そのものがどういう仕方で存在しているのかは答えていない
  (6) 「生きている」というあり方は、目の前にただ在る物とも現存在とも異なる。
      それは現存在のほうから、差し引く形でしか近づけない

推論(§11)
  (7) 平均的な日常性は、未開の段階のことではない。
      日常性はどの現存在にもついてまわり、未開の現存在にもその日常性がある
  (8) 民族学もまた、人間についての一定の概念を先に使っており、
      現存在の分析を前提している
  (9) 観察や実験で確かめていく学問は、土台の議論が終わるのを待たないが、
      資料を増やすことによって土台が手に入るわけでもない

結論
  これから始まる分析は、人間についての新しい学説を出す作業ではない。
  諸学が空欄のまま先へ進んでいる問い——この存在者の存在の仕方——を、
  正面から引き受ける作業である

次の問い
  では、その分析は実際にどこから始まるのか

重要語

  • animal rationale理性を持つ動物): 古代ギリシャの規定「言葉を持つ生き物」(ζῷον λόγον ἔχον)がラテン語へ移されたときの形。人間を「生き物」+「理性」という足し算で規定する。§10 が問題にするのは規定の内容ではなく、足される側の存在の仕方が問われていないという形のほうである。
  • Personalismus人格主義): 人は物ではなく、何かに向かって現に働きかけているところに、そのつど現れる、とする立場。§10 はこれを前進と認めたうえで、その働きと人そのものがどういう仕方で存在しているのかは答えられていない、と指摘する。
  • 平均的な日常性: Step 05(§5)で分析の出発点として置かれたもの。§11 は、これが発達の段階を意味しないことを明示する。
  • Völkerkunde民族学): §11 が例に挙げる学問。未開の現存在についての資料を提供するが、その作業自体が人間についての一定の概念を先に使っている。
  • Existenzialien(実存範疇)/Kategorien(範疇)/Jemeinigkeit(各自性)/Existenz(実存)/Dasein(現存在): Step 04・06 から継続。

誤解しやすい点

  • 「これらの学問は間違っている」という話ではありません。 §10 は、観察や実験で確かめられた成果を争っていません。足りないのは土台であって、結果ではありません。この区別を落とすと、§10 は単なる科学批判に見えてしまいます。心理学・人類学・生物学が浅いとも、劣っているとも、§10 は言っていません。

  • 「哲学のほうが偉い」という話でもありません。 Step 03・04・05・06 と同じ注意です。ここで示されているのは順序と担当範囲であって、価値の順位ではありません。

  • 「人間は動物ではない」という主張ではありません。 §10 が問題にしているのは、動物という規定の内容の当否ではなく、足し算という規定の形と、そこに残る未検討です。

  • 「未開の人々には日常性がない」ではありません。 §11 の主張はその逆で、未開の現存在にもその現存在なりの日常性があります。日常性は誰かに欠けているものではありません。

  • 「日常性は単純さのことだ」ではありません。 日常だから素朴だ、ということではありません。平均的とは、目立たない、とりたてて何ということもない、という意味であって、内容が薄いという意味ではありません。

  • 「資料をもっと集めれば解決する」ではありません。 §11 が最後に釘を刺している点です。足りないのは量ではないため、量を増やしても埋まりません。


自分で考えてみる

  1. あなたが「人間とは〜である」と説明するとき、その文は足し算の形をしていませんか。足される側に、あなたは何を置いていますか。
  2. 「日常的」という言葉を、あなたはふだん褒め言葉として使っていますか、それとも少し軽く見る言葉として使っていますか。

次のStepへ

これで第一章が終わります。決まったのは二つです。何を分析するのか(§9)。そして何と混ぜてはいけないのか(§10-11)。

ここまで、まだ分析は始まっていません。序論で構えを決め、第一章で位置を確定した——ここまでが準備です。

では、分析はどこから始まるのでしょうか。

Step 06 で、この存在者は「そのつど私たち自身である」と確認されました。その私たちは、いまどこにいるでしょうか。部屋のなか、通勤の途中、画面の前。つまり、何かのなかにいます。

ここで、ごく普通の言い方が一つあります。「私たちは世界のなかにいる」。

次の Step 08 から、第二章に入ります。そしてこの言い方が、最初の分析対象になります。ただし、そのまま受け取るわけにはいきません。コップのなかに水があるときの「なか」と、私たちが世界のなかにいるときの「なか」は、同じ「なか」なのでしょうか。


出典・参考資料

本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-07-evidence.md を正本とします。

また、本文中に引用形式(>)で置いた段落は、下に挙げた各節が述べている内容を本連載が日本語で要約したものであり、原典の逐語訳ではありません。

以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。

REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。

  • 第一篇 §10(H. 45-49) — 現存在の分析を、人類学・心理学・生物学から区切ること。これらの学問の実証的な成果が争点ではないこと。伝統的な人間の規定の二つの出どころ(古代ギリシャの「言葉を持つ生き物」と、神の像にかたどって造られたものという規定)。animal rationale が足し算の形をしており、足される側の存在の仕方が問われていないこと。デカルトが「私はある」の「ある」を規定しないまま残したこと。人格主義が「人格は物ではない」ところまで進みながら、作用と人格の存在の仕方を規定していないこと。「生きている」というあり方が、目の前にただ在る物とも現存在とも異なり、現存在のほうから差し引く形でしか近づけないこと
  • 第一篇 §11(H. 50-51) — 実存論的分析と、未開の現存在の解釈。平均的な日常性が未開の段階を意味しないこと。未開の現存在にもその日常性があること。民族学が資料を集める前にすでに人間についての一定の概念を用いており、現存在の分析を前提していること。実証的な学問は存在論の仕事を待たないが、資料を増やすことによって土台が得られるわけでもないこと

参考資料(本文に直接対応する引用はありません)

  • REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
  • REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
  • REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。