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Step 02 「問う」とはどういうことか——問いを成り立たせる三つの要素

このStepで答える問い

一つの「問い」は、どのような構造を持っているのか?


まず3行でいうと

  1. 問うことは、探すことである。そして探すことは、探されているものによってあらかじめ導かれている。つまり、問う前から私たちは対象について何かを知っている。
  2. どんな問いも、何について問うのか/何に問いかけるのか/何が得られれば答えになるのか、という三つの要素を同時に持っている。
  3. 存在への問いにこれを当てはめると、「存在者に問いかけよ」までは決まるが、無数の存在者のどれに問いかければよいのかが空欄で残る。§2 は、この空欄を作り出し、そこに入る候補として「いま現に問いを立てている当の存在者」を名指すところまでを行う。

前のStepから

Step 01 で分かったのは、次のことでした。

  • 「存在とは何か」は古代ギリシャで真剣に問われた問題だったが、その後「最も普遍的だから/定義できないから/自明だから」という三つの理由で、問う必要のないものとされていった
  • ハイデガーはこの三つを検討し、どれも問いを閉じる理由になっていないことを示した
  • したがって、この問いはあらためて立て直されなければならない

まだ分かっていないことがあります。

「立て直す」とは、具体的に何をすることでしょうか。

「存在とは何か」と口に出すだけなら、誰にでもできます。しかしそれだけでは、次に何をすればよいのかが決まりません。どこを調べればよいのか、何が手に入れば答えたことになるのか——そのどれも決まっていないからです。

問いは、声に出せば問いになる、というものではないのです。


今回なぜこの問題が必要なのか

そこで §2 がやることは、少し意外に見えるかもしれません。

存在について考えるのを、いったん止めます。 代わりに、「問う」という行為そのものを取り上げ、それがどんな部品でできているのかを調べます。

これは形式的な下ごしらえに見えて、そうではありません。問いの部品を数え上げると、その中の一つが空欄になっていることが分かるからです。その空欄が、この本の残り全体の作業を決めます。


普通の日本語で説明すると

まず、存在から離れて、ごくふつうの問いで考えてみます。

ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。

道に迷って、「駅はどこですか」と尋ねたとします。

このとき、あなたはすでにいくつものことを知っています。

  • 駅というものがどういうものかを知っています。知らなければ、そもそも駅を探そうとは思いません
  • 場所というものがどういうものかを知っています
  • 答えがどんな形で返ってくるかの見当もついています。「二つ目の角を右です」のような返事を期待していて、「駅とは鉄道の乗降施設です」という返事は期待していません

つまり、探すという行為は、探しているものについてのおおまかな心当たりに、あらかじめ導かれています。 何の心当たりもなければ、探しようがありません。見つけても、それが探し物だと分からないからです。

そのうえで、この問いを分解してみます。三つのものが出てきます。

要素 「駅はどこですか」では
何について問うているのか 駅の場所
何/誰を調べれば答えに近づけるのか この街を知っている人(たとえば住民や駅員)。その人がこの街について知っているから、駅の場所を尋ねることができます
何が得られれば、問いが目的に達したことになるのか 実際にたどり着ける道順

ここでいう「問いかける」は、人に質問することだけを意味しません。問いを進めるために対象に当たって調べる、という広い意味です。地図を広げるのも、実際に歩いて確かめるのも、同じ二つ目にあたります。

三つ目は、一つ目と同じように見えて違います。「駅の場所」は問いのテーマです。「実際にたどり着ける道順」は、そのテーマについて具体的に手に入れたい成果です。テーマだけ分かっても、たどり着けなければ問いは終わっていません。

そして二つ目が、いちばん見落とされます。問いには必ず「当たるべき先」があります。 どこに当たればよいかが決まっていなければ、答えを探しに行く場所がありません。


原典で起きていること

§2 でハイデガーが行うのは、いま見た分解を、術語として固定することです。

彼はまず、問うことは探すことであると押さえます。そして、探すことは探されているものによってあらかじめ導かれている、と続けます。

ここから一つの帰結が出ます。「存在とは何か」と問うとき、私たちは存在についてまったくの無知ではない。もし完全に無知なら、問いを立てることすらできないはずだからです。私たちはすでに、はっきりしないままではあれ「ある」を分かっている。§2 はこれを、私たちが現に持ってしまっている事実として確認します。

ここで一つの疑いが出ます。すでに分かっているのなら、問う必要はないのではないか。答えを先取りした堂々めぐりではないか。

§2 はこれを悪循環とは見ません。はっきりしないまま持っている了解と、問いを通して得られる了解は、水準が違うからです。前者は出発点であって、答えではありません。

そのうえで、問いの形が三つの要素として取り出されます。

  • das Gefragte(ゲフラークテ) — 問われているもの。問いのテーマにあたるもの
  • das Befragte(ベフラークテ) — 問いかけられるもの。そこに問いかけることで答えが読み取られる当のもの
  • das Erfragte(エアフラークテ) — 問い尋ねて得られるもの。それが手に入ったときに問いが目的に達する、当の成果

これを存在への問いに当てはめます。

要素 存在への問いでは
問われているもの(Gefragte) 存在(Sein)
問い尋ねて得られるもの(Erfragte) 存在の意味
問いかけられるもの(Befragte) 存在者(Seiendes)そのもの

三つ目がなぜ存在者になるのか。存在はつねに何かの存在だからです。「ある」だけが単独で転がっている、ということはありません。机の存在、猫の存在、私の存在——存在はいつも存在者の存在としてあります。だとすれば、存在の意味を読み取る先は、存在者以外にありません。

ここで §2 は行き止まりにぶつかります。

存在者は無数にあります。机も、猫も、数も、昨日の出来事も、すべて存在者です。そのどれに問いかければよいのでしょうか。

適当に選ぶわけにはいきません。選び方を間違えれば、そこから読み取れるのは、たまたま選んだその存在者の性質だけになってしまいます。

§2 の最後で、一つの候補が浮かびます。いま現にこの問いを立てている当の存在者、つまり私たち自身です。ハイデガーはこの存在者に、術語として Dasein(ダーザイン:現存在) という呼び名を与えます。

ただし §2 が与えるのは、この方向づけと呼び名までです。「なぜこの存在者でなければならないのか」を正面から論じるのは、§4 になります。


論証を整理する

問い
  一つの「問い」は、どのような構造を持っているのか

前提1
  問うことは探すことであり、探すことは探されているものにあらかじめ導かれている
  → 「存在とは何か」と問える時点で、私たちは「ある」をはっきりしないまま了解している

前提2
  この「はっきりしないままの了解」は、問いを無効にする堂々めぐりではない
  → 出発点であって、答えではない

推論
  問いは三つの要素を持つ
    (1) 問われているもの   ── 問いのテーマ
    (2) 問いかけられるもの ── 答えを読み取る先
    (3) 問い尋ねて得られるもの ── 手に入れたい成果

  存在への問いに当てはめると
    (1) 存在
    (3) 存在の意味
    (2) 存在はつねに存在者の存在であるから、問いかけ先は存在者そのもの

結論
  問いの形は確定した。ただし (2) の中身が空欄のまま残る。
  無数の存在者のうち、どれに問いかければよいのかが決まっていない

次の問い
  その選び方は、何によって決まるのか

重要語

  • das Gefragte(ゲフラークテ / 問われているもの): 問いのテーマにあたるもの。存在への問いでは Sein(存在)。
  • das Befragte(ベフラークテ / 問いかけられるもの): そこに問いかけることで答えが読み取られる当のもの。存在への問いでは Seiendes(存在者)そのもの。
  • das Erfragte(エアフラークテ / 問い尋ねて得られるもの): それが手に入ったときに問いが目的に達する、当の成果。存在への問いでは存在の意味。
  • Dasein(ダーザイン / 現存在): 自らの存在について問い、あらかじめ理解しながら生きている、私たち自身の存在のあり方。§2 の末尾で術語として導入される。(Step 00 から継続)

三つの要素の日本語は、本連載が説明のために置いた言い方です。訳書によって別の訳語が当てられている場合があります。原語を併記しているのは、訳語の違いに引きずられずに追えるようにするためです。


誤解しやすい点

  • これは「問いを三つに割る」話ではありません。 一つの問いが同時に持っている三つの側面です。「駅はどこですか」は一つの問いですが、テーマも、問いかけ先も、求めている成果も、その一言の中にすでに含まれています。

  • 書物が三つの部分に分かれている、という話でもありません。 ここで分析されているのは書物の構成ではなく、問いという行為の形です。

  • 「問いかけられるもの」を「尋ねる相手」と取り違えないでください。 日常の会話では、この二つはよく重なります(街を知っている人に尋ねる)。しかし存在への問いでは重なりません。問いかけ先は人ではなく、存在者そのものです。

  • 「すでに分かっているなら問う必要はない」ではありません。 §2 が確認しているのは、はっきりしないままの了解をすでに持ってしまっているという事実です。これは問いを不要にするどころか、問いを可能にしている条件のほうです。

  • §2 は Dasein を選ぶ理由を正面からは論じていません。 方向づけと呼び名が与えられた段階です。「なぜこの存在者なのか」を正面から扱うのは、§4 です。ここで「人間が特別だから」と先回りして納得してしまうと、その論証を読み飛ばすことになります。


自分で考えてみる

  1. あなたが最近立てた問いを一つ選び、三つの要素に分けてみてください。「問いかけ先」がいちばん書きにくいはずです。それはなぜでしょうか。
  2. 「問いかけ先」が決まっていない問いを、私たちは日常でどれくらい口にしているでしょうか。

次のStepへ

問いの形は決まりました。しかし最後の空欄——無数の存在者のうち、どれに問いかければよいのか——は空いたままです。

この空欄を、いきなり「人間に決まっている」と埋めることはできません。埋めるには、選び方の根拠が要ります。

ハイデガーはここで、少し遠回りをします。存在への問いは、そもそもどれくらい重要な問いなのか。 他の学問の営みと比べて、どういう位置にあるのか。それを先に確かめるのです。

次の Step 03 では、私たちが日々信頼している個別の学問——物理学、生物学、歴史学——と、存在への問いがどう関係しているのかを見ます。


出典・参考資料

本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-02-evidence.md を正本とします。 以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。

REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。

  • 序論 §2(H. 5-8) — 存在への問いの形式的な構造。問うことは探すことであり、探されているものにあらかじめ導かれていること。はっきりしないままの存在了解を私たちがすでに持っているという事実と、それが悪循環ではないこと。問いの三要素(das Gefragte / das Befragte / das Erfragte)。存在への問いにおいて、問われているものは存在、問い尋ねて得られるものは存在の意味、問いかけられるものは存在者そのものであること。存在はつねに存在者の存在であること。問いを立てている当の存在者に Dasein という術語が与えられること

参考資料(本文に直接対応する引用はありません)

  • REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
  • REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
  • REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。