Step 06 「何であるか」ではなく「いかに存在するか」——各自性と実存
このStepで答える問い
私たち自身は、机や石とは違う仕方で「ある」。その違いは、どこにあるのか?
まず3行でいうと
- 机や石は、「何でできているか」「どんな性質があるか」を挙げれば説明できます。しかし私たち自身は、これからどうあるかに関わりながら、いま存在しています。 だから性質を数え上げても足りません。ハイデガーはこう言います。この存在者の「本質」は、その実存のうちにある。
- そして私の存在は、「誰か一般の人間」の存在ではありません。そのつど、私自身の存在です。 ほかの人が私の代わりに、私として存在することはできません。ハイデガーはこの特徴を 各自性 と呼びます。だから語るときには「私はある」「あなたはある」と人称がついてまわります。
- そのつど自分自身の存在として生きているので、自分のあり方を自分自身のこととして引き受ける仕方もあれば、そうではない仕方もあります。ハイデガーはこの違いを 本来的/非本来的 と呼びます。ただし §9 は釘を刺します。非本来的であることは、存在が少ないことでも、劣った段階でもありません。
前のStepから
Step 05 で、分析の構えが整いました。
- 出発点は、とりたてて何ということもない 平均的な日常性
- 受け取ってしまった枠組みは、いったん 解体 にかける。ただしこれは破壊ではない
- 方法は 現象学。事柄のほうから見せてくるものを、そのまま見せてもらう
ここまでが序論です。この Step から、第一篇に入ります。
まだ決まっていないことがあります。 日常を見るといっても、何を手がかりに見ればよいのでしょうか。
いきなり「では日常を観察しましょう」と言われても、何を観察すればいいのか分かりません。観察の前に、この存在者がそもそもどういう仕方で「ある」のかを押さえておく必要があります。机や石とは違う仕方で、という以上のことを。
今回なぜこの問題が必要なのか
ここを押さえないと、分析はすぐに脱線します。
私たちは何かを調べるとき、ほとんど反射的に「それは何か」を問います。性質を数え上げ、種類に分類し、他と比べる。 これは物を扱うときには有効な手順です。
ところが、この手順をそのまま現存在に当てはめると、出てくるのは「人間という種の性質一覧」になります。二足歩行する。言語を使う。道具を作る。——どれも間違いではありませんが、Step 04 で見た「自分の存在が自分にとって問題になっている」というあり方は、この一覧のどこにも出てきません。
§9 が最初にやるのは、この手順を止めることです。
原典で起きていること
「本質」は実存のうちにある
§9 は、分析される当の存在者をこう確認するところから始めます。それは、そのつど私たち自身である。
そのうえで、一つ目のことが言われます。ただ、その言い方はかなり詰まっているので、先に普通の言葉で場所を作っておきます。
机や石については、「何でできているか」「どんな性質があるか」を挙げていけば、かなりのところまで説明できます。木でできている。四本脚である。硬い。重い。——この形式で足ります。
ところが私たち自身については、これだけでは足りません。私たちは、これからどうあるか、どういうふうに生きていくかに関わりながら、いま存在しているからです。仕事を続けるかやめるか、という大きな話だけではありません。今日の午後をどう過ごすか、という小さな話でも同じです。どうあるかがまだ決まっていない。そして、そのことに関わりながら存在している。
Step 04 で見たとおり、ハイデガーはこの存在の仕方を指すために Existenz(実存) という言葉を使いました。
ここで一つ注意です。実存は「何でも自由に選べる」という意味ではありません。生まれた場所も、体も、これまでの経歴も選べません。それでもなお、そこから先どうあるかに関わりながら存在している——そのあり方のことです。
そのうえで、§9 の一つ目の言明です。
この存在者の「本質」は、その存在すべきあり方のうちにある。この存在者について「何であるか」を語りうるとしても、それはその存在のほうから捉えられなければならない。
短く言い直せば、この存在者の「本質」は、その実存のうちにある、ということです。
ここから一つの帰結が出ます。この存在者について挙げられる特徴は、そこに転がっている何かの性質ではありません。そのつど、どう存在しうるかという、存在の仕方です。石の「硬さ」は石が持っている性質ですが、この存在者について語られることは、そういう種類のものではない。
だから Dasein(現存在) という呼び名は、「何であるか」を言い当てた名前ではありません。存在のほうを指している名前です。
そのつど私のものである——各自性
二つ目のことが言われます。ここも、先に普通の言葉から入ります。
私の存在は、「誰か一般の人間」の存在ではありません。そのつど、私自身の存在です。 誰かが私の代わりに、私として存在することはできません。仕事を代わってもらうことはできても、私として生きるところを代わってもらうことはできない。
ハイデガーは、この「存在がそのつど自分自身のものである」という特徴を、Jemeinigkeit(イェマイニヒカイト:各自性) と呼びます。
これがなぜ一つの言明になるのか。§9 の指摘はこうです。この存在者は、ある種類の一例として数え上げることができない。
「人間という種があり、その一つの個体がここにいる」という語り方は、物については成り立ちます。「哺乳類という類があり、猫はその一種であり、この猫はその一匹である」。しかしこの存在者については、その語り方が届きません。
だから §9 は、この存在者を語るときには人称代名詞がついてまわると述べます。「私はある」「あなたはある」。「それがある」では言い表せない。
念のため。 各自性は「個性」のことではありません。人と違っていること、個性的であること、自己表現とも関係ありません。ここで言われているのは、存在がそのつど誰かのものであるという、あり方についてのことだけです。そしてこれは、あなたにも、誰にでも、同じように当てはまります。
本来的にも、非本来的にも
各自性から、もう一つ出てきます。
現存在は、そのつど自分自身の存在として生きています。だから、自分のあり方を自分自身のこととして引き受ける仕方もあれば、そうではない仕方で存在することもあります。
ハイデガーは、この違いを考えるために 本来的(eigentlich) と 非本来的(uneigentlich) という二つの言葉を導入します。
そして、ただちに §9 は釘を刺します。
非本来的であることは、存在が「少ない」ことでも、存在の段階が「低い」ことでもない。
これは重要な注意です。非本来性は、この存在者をその最も充実したありようにおいて表していることもありうる。だめな状態のことではありません。
はっきり言い切っておきます。本来的=良い生き方、非本来的=悪い生き方、という意味ではありません。 二つの言葉は、生き方の採点表としてではなく、あり方の区別として置かれています。
なお §9 は、この二つの中身をまだ説明し切っていません。ここは区別が導入される段階です。二つがどういう事態を指すのかは、本書のずっと先で正面から扱われます。本連載も、この段階で先の内容を先取りしません。
物についての言い方を、この存在者に持ち込まない
§9 は最後に、言葉づかいの区別を一つ立てます。
これも先に普通の言い方をします。物について語るときの言い方と、私たち自身について語るときの言い方は、別のものでなければならない。 「硬い」「四角い」「三キログラムある」——こうした言い方をそのまま持ち込めば、私たち自身を物として扱うことになるからです。
ハイデガーは、私たち自身の存在を言い表すための言葉を Existenzialien(実存範疇) と呼び、私たち以外の存在者について使う言葉である Kategorien(範疇) から、はっきり切り離します。
違う種類のものには、違う種類の言い方が要る。 §9 が立てているのは、それだけのことです。
具体例
ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。
履歴書を思い浮かべてください。生年月日、学歴、職歴、資格、使える言語。その人について「何であるか」が、かなりの精度で書き並べられます。
ところが、その一覧をどれだけ詳しくしても、その人がいま何を気にかけて生きているかは出てきません。項目を増やしても出てきません。書かれていないのではなく、その形式では書けないからです。
この例が示しているのは、「何であるか」の一覧と、「いかに存在するか」は別の種類のことだという一点だけです。履歴書に何を書き足せばよいか、という話ではありません。
論証を整理する
問い
私たち自身は、机や石とは違う仕方で「ある」。その違いはどこにあるのか
前提1
この存在者は、そのつど私たち自身である
(Step 04:その存在において、その存在そのものが問題になっている)
推論
(1) この存在者の「本質」は、その実存のうちにある
→ 語られる特徴は「性質」ではなく「どう存在しうるかという存在の仕方」である
→ 「Dasein」という呼び名は、何であるかではなく存在のほうを指している
(2) この存在者が気にかけている当の存在は、そのつど私のものである(各自性)
→ ある種類の一例として数え上げられない
→ 語るときには人称代名詞がついてまわる(「私はある」「あなたはある」)
(3) そのつど自分自身の存在として生きているので、
自分のあり方を自分自身のこととして引き受ける仕方もあれば、
そうではない仕方で存在することもある
→ 本来的/非本来的という二つの言葉が導入される
→ ただし非本来的であることは、存在が少ないことでも劣った段階でもない
→ ここは区別が導入される段階であり、中身はまだ説明されていない
(4) したがって、私たち自身について使う言葉(実存範疇)は、
物について使う言葉(範疇)から切り離さなければならない
結論
分析は「何であるか」ではなく「いかに存在するか」を問う。
そしてその存在は、そのつど私のものである
次の問い
では、この区別を守らなかった学問は、どこで何を見落としてきたのか
重要語
- Jemeinigkeit(イェマイニヒカイト / 各自性): 私の存在は「誰か一般の人間」の存在ではなく、そのつど私自身の存在である、ということ。誰かが私の代わりに私として存在することはできない。個性のことでも、自分らしさのことでもない。
- Existenzialien(エグジステンツィアーリエン / 実存範疇): 私たち自身の存在を言い表すための言葉。物について使う言葉である Kategorien(範疇) からはっきり切り離される。
- 本来的(eigentlich)/非本来的(uneigentlich): 自分のあり方を自分自身のこととして引き受ける仕方と、そうではない仕方。良い生き方/悪い生き方という意味ではない。 §9 は区別を導入するところまでで、中身が正面から扱われるのは本書のずっと先。
- Existenz(実存) / Dasein(現存在) / Destruktion(解体) / Phänomenologie(現象学): Step 04・05 から継続。
誤解しやすい点
-
「本質は実存にある」は「人間に本質はない」ではありません。 §9 が言っているのは、この存在者について「何であるか」を語りうるとしても、それはその存在のほうから捉えられなければならない、ということです。本質の否定ではなく、本質をどこから捉えるかの指定です。
-
各自性は個人主義ではありません。 生き方についての主張ではありません。そのつど私のものであるという、あり方についてのことです。他者との関わりを否定してもいません。
-
各自性は「私だけが特別」ではありません。 そのつど私のものである、ということは、あなたにも、誰にでも同じように当てはまります。特権の主張ではなく、この存在者の存在の仕方についての話です。
-
非本来的であることは、劣っていることではありません。 §9 がわざわざ釘を刺している点です。「非本来的な生き方はだめだから本来的になろう」という読みは、§9 の段階ですでに退けられています。
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「可能性である」は「潜在能力を秘めている」ではありません。 眠っている才能の話ではなく、そのつどどう存在するかが決まっていない、というあり方の話です。
-
実存は「何でも自由に選べる」という意味ではありません。 生まれた場所も、体も、これまでの経歴も選べません。それでもなお、そこから先どうあるかに関わりながら存在している——そのあり方を指しています。
-
実存範疇と範疇の区別は、人間を物より上に置く話ではありません。 Step 03・04・05 と同じ注意です。違う種類のものには違う種類の言い方が要る、という言葉づかいの区別であって、価値の順位ではありません。
自分で考えてみる
- あなた自身について「何であるか」を10項目書き出してみてください。そのうち、あなたがいま気にかけていることを言い当てている項目はいくつありますか。
- 「私はある」を「それがある」に置き換えると、何が失われるでしょうか。
次のStepへ
二つのことが言われました。「本質」は実存のうちにある。そしてその存在は、そのつど私のものである。
そしてもう一つ、守るべき区別が立てられました。物についての言い方を、この存在者に持ち込まない。
ここで自然に出てくる疑問があります。では、その区別を守らなかったらどうなるのか。
これは架空の話ではありません。人間を扱う学問はすでにたくさんあります。生物学は人間を生き物として扱い、心理学は心のはたらきとして扱い、人類学は文化のなかの存在として扱う。どれも成果を上げてきました。
それらは、いまここで立てられた区別のどちら側にいるのでしょうか。そして、もし物の側の言い方で人間を扱っているのだとしたら、そこで見落とされているものは何なのでしょうか。
次の Step 07 では、その問いに入ります。
出典・参考資料
本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-06-evidence.md を正本とします。
以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。
また、本文中に引用形式(>)で置いた段落は、下に挙げた各節が述べている内容を本連載が日本語で要約したものであり、原典の逐語訳ではありません。
REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。
- 第一篇 §9(H. 41-45) — 現存在の分析の課題。分析される存在者はそのつど私たち自身であること。この存在者の「本質」がその実存のうちにあること。語られる特徴が性質ではなく可能な存在の仕方であること。この存在者の存在がそのつど私のものであること(各自性)と、種の一例として数え上げられないこと。語るときに人称代名詞がついてまわること。本来的/非本来的という二つのあり方と、非本来性が存在の少なさや低い段階を意味しないこと。現存在の存在規定(実存範疇)を、物の存在規定(範疇)から切り離すこと
参考資料(本文に直接対応する引用はありません)
- REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
- REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
- REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。