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Step 00 そもそも『存在と時間』は何をしようとしている本なのか

このStepで答える問い

  • 20世紀哲学の最高峰とされる『存在と時間』は、究極的に「何を問題にし、解決しようとした本」なのか?
  • なぜ、存在を問うために「人間」を調べ、そのあげくに「時間」へたどり着くのか? その順番がなぜそうなるのかを明らかにする。

まず3行でいうと

  1. 存在する(ある)」とは本来どういうことなのかという、歴史上最も忘れ去られた当たり前の問いを根底から立て直そうとした本。
  2. 存在そのものは直接調べられない。そこで、存在をうっすら分かったまま問うている「人間自身(現存在)」の日常のあり方を、まず細かく調べる。
  3. その分析は最後に、「そもそも人間がそういうあり方をしていられるのは、なぜか」という問いへ行き着く。ハイデガーはそこで 時間性(Zeitlichkeit) という問題を立て、時間のほうから存在を解釈する道を開こうとした。

なぜこの本はこんなに難しいのか

哲学に興味を持った人が一度は憧れ、そしてほぼ確実に挫折する本。それがマルティン・ハイデガーが1927年に発表した『存在と時間』です。

なぜこの本は、ここまで読者を拒絶するのでしょうか。 最大の理由は、私たちがふだん使っている言葉を、まったく違う意味で使い直しているからです。見た目は知っている言葉なのに、中身が入れ替わっている。それが最初から最後まで続きます。

例えば、翻訳書を開くと次のような言葉が並びます。

「現存在の存在は気遣いである」
「共同存在において世界は世人に乗っ取られている」

これを前にすると、多くの読者は「難しい言葉を、別の難しい言葉に置き換えているだけではないか」と感じて、力尽きてしまいます。 しかし、ハイデガーの言葉づかいは、読者を驚かせるためのものではありません。私たちが当たり前だと思って疑わないことを、正確に言い当てるには、ふだんの言葉では足りなかった。 だから彼は、細かい違いまで言い分けられる言葉を、新しく作る必要がありました。

本連載は、難解な哲学用語をただ別の専門語に置き換えるだけの「要約」は行いません。彼が、どの「問い」から出発し、どのような「前提」の上に、どんな「推論」を重ねて、その「結論」へとたどり着いたのか。その論理の歩みを、数式のように一歩一歩、しかし「普通の、血の通った日本語」で再現していきます。

まずは、ハイデガーが私たちに迫った究極の問いの出発点から見ていきましょう。


ハイデガーが問い直したもの

ハイデガーが生涯をかけて問い続けたのは、ただ一つです。

「ある」とは、いったいどういう意味なのか。

これだけです。ドイツ語では Sein(ザイン) と言います。

私たちは毎日、この「ある」「いる」という言葉を無意識に使っています。

  • 「机がある
  • 「猫が庭にいる
  • 「私はここにいる
  • 「空は青(空は青くある)」

このように、私たちは「存在する」という事態を完全に使いこなしており、お互いにそれを何となく理解(これをハイデガーは存在了解と呼びます)しています。 しかし、誰かから「じゃあ、『ある』ってどういうこと? 説明してみて」と問われた瞬間、私たちは深い沈黙に陥ってしまいます。

多くの人は、「あるってことは、物質が物理的な3次元空間のそこに配置されているってことでしょう」と答えるかもしれません。 しかし、それでは「私には将来の夢がある」とか、「二人には特別な絆がある」という場合の「ある」は説明がつきません。夢や絆は、重さを持った物として、どこかに転がっているわけではないからです。物として空間を占めていることだけを「ある」の条件にしてしまうと、私たちの毎日を成り立たせているものの多くが「存在しないもの」になってしまいます。

西洋哲学の歴史は、古代ギリシャのプラトンやアリストテレスの時代に、「存在とは何か」を一度は真剣に考えました。しかしその後、この問いは問われなくなります。「あまりに普遍的で、あまりに当たり前だから、わざわざ定義する必要はない」 とされたからです。 ハイデガーは、この何千年も止まったままの場所こそ、もう一度問い直すべきだと主張しました。「あるとはどういうことなのか」を、最初から立て直そうとしたのです。


「存在するもの」と「存在」は違う

ここから先を読むために、一つだけ分けておかなければならないことがあります。「存在するもの」と「そのものが存在すること」は、同じではありません。

さきほどの「机がある」「猫が庭にいる」「私はここにいる」という文に戻ってみましょう。

このとき、机・猫・私は、それぞれ指を差すことができ、数えることができ、大きさや色を測ることができます。こうして一つずつ取り出せるものが、前者です。机も猫も私も、種類はまるで違いますが、どれも「一つずつ取り出せるもの」です。

では後者は何でしょうか。

机についても、猫についても、私についても、私たちは「ある」「いる」と言いました。この三つの文に共通して言われている「あるということ」そのものが、後者です。

この二つに、ハイデガーはそれぞれ名前を与えます。

  • Seiendes(ザイエンデス) = 存在者。一つずつ取り出せるもの
  • Sein(ザイン) = 存在。「ある」ということ自体

ここが最初の関門です。存在(Sein)は、机・猫・私と並んでもう一つ数えられる「四番目の何か」ではありません。 机の裏に隠れている特別な物質でもなく、机を存在させている見えないエネルギーでもなく、すべてのものが置かれている背景でもありません。存在は、「ある」とはどういうことなのか、というそのこと自体を指しています。

ですから「では存在をどこかから持ってきて見せてください」と言われても、誰にもできません。持ってこられるものは、すべて存在者のほうだからです。

科学(物理学、生物学、歴史学など)は、この存在者を非常に細かく調査する営みです。机の材質を分析し、猫の遺伝子を読み、人間の歴史を記述する。それは極めて有益です。しかし科学は、調べる対象がすでに「ある」ものとして与えられているところから始まります。「そもそも『ある』とはどういうことか」は、科学が答える問いの外側に置かれたままです。 ハイデガーが問いたかったのは、個々の「もの」についてのデータではなく、それらについて「ある」と言われるときの、その「ある」の意味でした。


なぜ人間を調べるのか

では、この「あるということ」そのものを調べるために、私たちはどこから調査を開始すればよいでしょうか。

存在は物ではありませんから、机や猫のように手にとって顕微鏡で観察する、というわけにはいきません。調べようとしても、つかむべき対象がそこに置かれていないのです。

そこでハイデガーは、向きを変えます。

「存在そのものは、直接には調べられない。ならば、存在するもののなかに、『あるとはどういうことだろう』と自分で問いかけ、あらかじめ「ある」の意味をうっすら分かったまま生きている存在者がいる。その一つを見つけて、そのあり方を徹底的に調べればよいのではないか」

この「存在についてうっすらと理解(存在了解)し、みずからの生き方を問いかけている存在者」こそが、他ならぬ私たち自身、すなわち「人間」です。 ハイデガーはこのあり方に、Dasein(ダーザイン:現存在) という名前を与えました。生き物の一種としての人間(ホモ・サピエンス)と区別するためです。

人間は、ただ机や石ころのようにそこに「置かれている」だけではありません。「自分は現在どういう状態にあるか」「将来どう生きればよいか」という可能性に向けて、常に自分を定義し、気にして生きています。 この現存在が日常をどう生きているのかを、ひとつずつ調べていく。存在の意味へ近づく道は、そこにしかない。 ハイデガーはそう考えました。

これが、『存在と時間』の第一部が延々と人間の分析(現存在分析)に費やされる理由です。 人間が特別に偉いからでも、哲学が人間を好むからでもありません。存在を問う私たち自身が、すでに「ある」ということを何らかの仕方で分かっているからです。


なぜ「時間」が出てくるのか

では、その現存在の日常を順に調べていくと、最後に何へ行き着くのでしょうか。

本書はここから先、いくつもの段階を踏みます。日常で私たちは誰として生きているのか。気分は何を伝えているのか。私たちは何から目をそらしているのか。そして、自分の終わりをどう引き受けるのか。ハイデガーはそれぞれに名前を与えます。世人(das Man)/不安(Angst)/死への存在(Sein zum Tode)/決意性(Entschlossenheit) といった言葉です。

ここでは名前を挙げるだけにとどめます。 それぞれが何を指すのかは、この連載の後半で一つずつ扱います。名前を先に知ったからといって、内容が分かったことにはなりません。

大事なのは、これらの分析が最後に一つの問いへ集まっていくことです。

その問いはこうです。そもそも、人間がそういうあり方をしていられるのは、なぜなのか。 何がそれを成り立たせているのか。

この問いを追っていくなかで、後に重要になるのが 時間性(Zeitlichkeit) です。

これは、私たちが日頃「時間が過ぎる」と意識するような、時計が等速で刻む時間とは水準が異なります。かといって、人間が心のなかで時間を作り出しているという話でも、意識の内側を流れる主観的な時間の話でもありません。 現存在がそもそも「存在する」というあり方をしていること自体を成り立たせている、より根底の構造のことです。

時間性が具体的にどういう構造なのかは、この連載のずっと後で扱います。 ここで押さえるのは、本書がその問いへ向かう、ということだけです。

そして、ハイデガーはこう見通します。 私たちは「これは以前からある(過去)」「今まさに目の前にある(現在)」「これからあるかもしれない(未来)」と言います。どれについても「ある」と分かっている。 それができるのは、この時間性が、何かが「ある」と分かるための地平(Horizont)としてあらかじめはたらいているからではないか。

「地平」という言い方が出てきました。これは景色の話ではありません。何かが見えてくるときに、その手前で働いている見晴らしの範囲、というほどの意味です。

つまり、ハイデガーは、「存在(Sein)」の意味を理解するための地平として「時間(Zeit)」を明らかにしようとしたのです。 これこそが、本書のタイトルが『存在と時間』と結ばれている、最大の理由なのです。


この本は完成していない

さて、ここまで聞くと「なるほど、時間こそが存在の意味だと完全に証明されたのだな」と思うかもしれません。 しかし、ここに見過ごせない事実があります。

実は、『存在と時間』という本は、当初ハイデガーが計画した全体の設計図の、前半部分(半分以下)で突然途絶え、未完成のまま世に出されています。

ハイデガーは元々、以下の体系を構築する計画でした。

  • 第一部:現存在(Dasein)を時間性へ向けて解釈し、存在への問いの超越論的な地平(=それが成り立つための、あらかじめの条件にあたる場)として時間を明らかにする
    • 第一篇:現存在の予備的な基礎分析
    • 第二篇:現存在と時間性
    • 第三篇:時間と存在(★ 未刊
  • 第二部:存在論の歴史を時間性の地平で解体する(★ 未刊

1927年に公刊され、私たちが現在手にできる『存在と時間』は、第一部第一篇・第二篇まで。 つまり本書は、Daseinの存在構造が時間性に根ざしていることを示したところで唐突に終わっています。一番のゴールであったはずの「存在一般の意味と時間との関係を全面的に解き明かす」という計画は、遂行されないまま中断されたのです。

ですから、この解説シリーズを読むときも、「ハイデガーが存在をすべて時間で説明しきった」と早合点しないでください。本書が到達したのは、途中までです。 その先をどう考えるかは、彼自身のその後の思想(後期ハイデガー)にゆだねられ、そして私たち自身が引き受けるべき問いとして残されています。


この連載ではどう読むのか

本プロジェクトは、ハイデガーの書いた文章を一言一句直訳する「翻訳書」ではありません。また、難解な表現を少しだけ分かりやすくしただけの「焼き直し」でもありません。

私たちは、ハイデガーと同じ「存在するとはどういうことか」という問いをもう一度置き直したうえで、次の三つをはっきり分けたまま進みます。

  1. 原典の論理: ハイデガーがどのように考えをつないだか(これが主)
  2. 日常への言い換え: それが私たちの毎日のどこに当たるのかを、身近な例で確かめる(これは従)
  3. 私自身の哲学への接続: 彼への批判も含めて、いま生きている私たちの生き方にどうつながるのか

どの文がどれに当たるのかを、そのつど本文で示します。

暗記する知識としての哲学ではなく、「この世界に自分が在る」という驚きを、自分の頭で考えるための並走。それがこの連載の目的です。


今いる場所

▶ 【現在地】 Step 00:そもそも『存在と時間』は何をしようとしている本なのか (全体の地図)

  Step 01:「ある」という当たり前を、なぜもう一度問うのか (序論 §1)

  Step 02:「問う」とはどういうことか——問いを成り立たせる三つの要素 (序論 §2)

  Step 03:なぜ「存在」の問いが科学の土台に関わるのか (序論 §3)

重要語

  • Sein (ザイン / 存在): 個々のものについて「ある」と言われるときの、その「あるということ」自体。数えられる物ではない。
  • Seiendes (ザイエンデス / 存在者): テーブル、人、星など、そこに存在する個別の事物。
  • Dasein (ダーザイン / 現存在): 存在の意味を問いかけ、何らかの仕方で理解しながら実存している「私たち」の存在のあり方。
  • Seinsverständnis (存在了解): 私たちが毎日、意識せずに「ある」ということを分かって使いこなしていること。理屈として学んだ理解ではなく、それより手前ですでに働いている分かり方を指す。

誤解しないために

  • Dasein(現存在)を単なる「人間(ホモ・サピエンス)」とだけ覚えないこと:
    ハイデガーが分析したいのは、二本足で歩く哺乳類としての人間ではありません。自分がどう存在するかに関わりながら生きている、そのあり方のほうです。
  • 「存在一般の意味=時間」が本書の中で完全に実証されてゴールしたと思わないこと:
    本書は、人間が時間性である点を実証したところで中絶しており、存在そのものの体系定義は「未完の中断」です。

自分で考えてみる

  1. あなたは、目の前にある「マグカップ」がそこに存在しているという事態そのものを、物としての特長(赤い、丸い等)を一切使わずに他人に説明できますか?
  2. 「石が存在すること(ただそこに置いてある)」と、「あなたが今この時代に存在すること」には、どのような決定的な違いがあると思いますか?

次のStepへ

『存在と時間』の全体像と、「存在 → 人間 → 時間」という順番、そしてこの本が未完で終わっているという事実が見えました。

ここまでが地図です。次からは、実際に本を開きます。

次の Step 01 では、ハイデガーが本書の最初に置いた §1 を詳しく読んでいきます。

なぜ「存在とは何か」という問いは、古代ギリシャで一度は真剣に問われながら、その後の長い哲学の歴史のなかで問われなくなっていったのか。「あまりに当たり前だから、あえて問う必要はない」 とされてきた経緯を、順を追って見ていきます。


出典・参考資料

本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-00-evidence.md を正本とします。 以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。

REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。

  • 序論 §1(H. 2-4) — 「存在とは何か」が自明視され、あえて問われなくなってきたこと
  • 序論 §2(H. 7-8) — 存在を問うには、その問いを立てている当のものから出発する必要があること
  • 序論 §4(H. 11-15) — 存在(Sein)と存在者(Seiendes)の区別、および現存在(Dasein)から調査を始める優先権
  • 序論 §5(H. 17-19) — 現存在の分析が時間性(Zeitlichkeit)へ向かうという予告
  • 序論 §8(H. 39-40) — 本書の計画(第一部・第二部およびその各篇の構成)
  • 第一篇 §10(H. 45) — 現存在の分析を、人類学・心理学・生物学と区別すること

参考資料(本文に直接対応する引用はありません)

  • REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
  • REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
  • REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。