Step 05 存在をどう調べるのか——現存在・伝統・現象学
このStepで答える問い
存在への問いを実際に進めるには、どんな準備と方法が必要なのか?
まず3行でいうと
- どこから始めるか——特別な瞬間ではなく 平均的な日常 から。そしてこの分析は準備的なものであり、その先に「存在了解の地平としての時間」という課題が置かれる(§5)。
- 受け取った枠組みをどう扱うか——私たちは自分を見る枠組みを歴史から受け取っている。伝統は手渡すと同時に出どころを覆い隠すので、いったん 解体 にかける。これは破壊ではない(§6)。
- どういう方法で進めるか——事柄のほうから見せてくるものを、そのまま見せてもらう。それが 現象学 である(§7)。そしてこの計画が本全体でどう配置されるかが示される(§8)。
前のStepから
Step 04 で、調べる先が決まりました。
- この存在者においてだけ、自分の存在そのものが問題になっている
- だからこの存在者は、自分の存在について何かをすでに了解している
- そのつど関わりうるこの当の存在を Existenz(実存) と呼ぶ
- したがって基礎存在論は、この存在者、すなわち 現存在(Dasein) の分析に求められなければならない
しかし、すぐに分析へ入れません。
Step 04 の最後で見たとおり、私たちが「自分とは何か」を考えるとき、まっさらな頭で考えているわけではないからです。人間とは理性的動物である。人間とは考える主体である。人間とは魂と身体からできている——こうした枠組みを、私たちは知らないうちに受け取って使っています。
その枠組みごと現存在を見てしまえば、出てくるのは伝統の焼き直しです。
今回なぜこの問題が必要なのか
ここには、順番の問題があります。
現存在を調べたい。しかし調べる私たち自身が、すでに何らかの見方を身につけている。だとすれば、「まず見方を点検し、それから対象を見る」という手順を踏むしかありません。
問題は、その点検が簡単ではないことです。受け取った枠組みは、たいてい枠組みとして意識されていません。 それは「ものの見方の一つ」としてではなく、「当たり前の事実」として私たちの中にあります。見方だと分かっていれば、外して確かめることもできます。分かっていないから、確かめようがないのです。
序論の残りの §5-8 は、この事情をふまえて、分析の構えを四つの角度から順に整えます。
§5 どこから始め、何を目指すか … 出発点と行き先
§6 過去の哲学をどう扱うか … 受け取った枠組みとの向き合い方
§7 どう調べるか … 方法の名前と、その中身
§8 どんな順序で進めるか … 本一冊の計画
四つは別々の話題ではありません。「調べる」という一つの作業について、どこから始めるか(§5)、過去の哲学をどう扱うか(§6)、どう調べるか(§7)、どんな順序で進めるか(§8)を、順に決めていく、ひとつながりの準備です。
原典で起きていること
§5 どこから始め、どこを目指すのか
Step 04 で、基礎存在論は現存在の分析に求められなければならない、と決まりました。§5 はその分析の始点と到達目標を定めます。
始点。 候補はいくらでもあります。極限的な決断の瞬間。深い内省の場面。あるいは理想的な人間像。しかし §5 はそのどれも取らず、平均的な日常性を取ります。
理由は単純です。特別な状態から始めれば、そこで得られた構造が「特別な状態にだけ当てはまるもの」なのか「そもそものあり方」なのかが区別できなくなります。とりたてて何ということもない、いつもの状態。そこにこそ、現存在がそのつどすでにそうであるあり方が現れている、というのが §5 の判断です。
到達目標。 §5 は、この分析が 準備的 なものであることを明示します。現存在の存在をあらわにするところまでを行い、その意味の解釈はさらに先で行う。そのうえで、向かう先が示されます。存在了解の地平として時間を取り出すこと——それがこの本の課題として、あらためて置かれます。
「地平」という言い方が出てきました。これは景色の話ではありません。何かが見えてくるときに、その手前で働いている見晴らしの範囲、というほどの意味です。ここで言われているのは、「ある」ということが分かるとき、その手前で時間が働いているのではないか、という見込みです。
ここではまだ、時間について何が言われるのかは示されません。示されるのは「そこへ向かう」ということだけです。本連載も、この段階で先の結論を先取りしません。
§6 受け取った枠組みを、どう扱うのか
始点が決まっても、まだ足りません。その日常を見る目のほうが、すでに何かに染まっているからです。§6 が扱うのはここです。
現存在は歴史のなかにあります。生まれたときから、ものの見方を伝え聞いて育ちます。ここまではあたりまえの話です。
§6 の指摘はその先にあります。伝統は、手渡したものを近づけるどころか、たいていは覆い隠してしまう。
なぜでしょうか。受け取ったものが十分に使えるからです。使えるあいだ、それがどこから来たのか、どういう問いに答えるために作られたのかは、問われません。そして問われないまま、それは「そういうものだ」として自明になります。出どころが見えなくなったとき、それは疑いようのない前提になります。
だから §6 は、存在への問いには 解体(Destruktion) の作業が属する、と述べます。
解体は、破壊ではない
ここは §6 でいちばん誤解されるところです。
§6 は、この作業について否定的な意味をはっきり退けます。 伝統を振り落とすこと、過去を無に葬ること——そういうことではない、と明示されます。
では何なのか。狙いは逆です。伝統を、それがもともと持っていた可能性において、その限界も含めて測り直すこと。否定的なはたらきは付随的なものにとどまり、正面に出るのは肯定的な意図のほうだ、と §6 は述べます。
ここから一段落は、本連載による言い換えです。ハイデガー自身の言い方ではありません。
つまりこの作業は、建物を取り壊すのではなく、塗り重ねられた層をはがして、下の構造がどうなっているかを確かめることに近い。確かめたうえで、使えるものは使う。ただしこの言い換えが示すのは作業の向きだけで、伝統の下に手つかずの正解が埋まっている、という意味ではありません。
解体はどこへ向かうのか
§6 は、この解体が向かう先を具体的に挙げます。カントの時間論と図式論。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」。そして古代の時間論。
いずれも個人攻撃ではありません。§6 の見立てはこうです。
- カントは、時間の次元へ向けてある程度まで進んだ。しかし存在への問いを立てていなかったこと、そして現存在の存在論を先に持っていなかったことによって、そこで止まった
- デカルトは「われ思う(cogito)」を出発点に据えたが、その「われあり(sum)」のほうの存在の意味は、問われないまま残った
- 古代の存在論は、存在を「いま目の前にそろっていること」として理解した。つまり、時間のある特定のあり方——現在——を手がかりにして存在を捉えていた
三つ目が §6 の核心です。存在の理解には、すでに時間が入り込んでいた。 ただし、そのことは自覚されていなかった。だからこそ、解体は時間の問題を導きの糸として行われます。
§7 どういう方法で進めるのか
どこから始めるかが決まり、過去の哲学をどう扱うかも決まりました。残っているのは、実際にどう調べるかです。
ここで一つ、避けられない要求が出ています。§6 が問題にしたのは、あらかじめ持っている枠組みが事柄を覆ってしまうことでした。だとすれば方法のほうも、あらかじめ用意した枠に事柄をはめ込まないものでなければなりません。
先に、ごく普通の言い方でこの方法を言っておきます。最初に決めた理論に対象を押し込むのではなく、その対象がどのように現れているかを、そこから見ていく。 これがここで選ばれる進め方です。
この進め方につけられた名前が、現象学(Phänomenologie) です。§7 がこの語に与えている中身は、思いのほか素朴です。
それ自身を示すものを、それ自身から示されてくるとおりに、それ自身のほうから見えるようにさせること。
つまり、事柄のほうから見せてくるものを、そのまま見せてもらう。「事象そのものへ」という標語で知られる構えです。
大事なのは、これが立場の名前ではなく、やり方の名前だということです。「現象学派はこう考える」という中身の主張ではありません。どう扱うかの手順を指しています。
だからこれは、「先入観をすべて捨てた状態になれ」という要求ではありません。 そんな状態になれる、と約束するものでもありません。言われているのは、何をどう見るかを、こちらの理屈のほうで先に決めてしまわない、という手順のことです。
§8 それを、本全体にどう配置するのか
最後に §8 が、ここまでの構えを本一冊の設計として並べます。Step 00 で先に見たとおりです。
- 第一部:現存在を時間性へ向けて解釈し、存在への問いの超越論的な地平として時間を明らかにする
- 第二部:存在論の歴史を現象学的に解体する
ここで、§6 との関係がはっきりします。§6 で構えられた解体は、第二部で実行される計画でした。 しかも第二部の三つの区分は、§6 が挙げた三つの行き先——カント、デカルト、古代——にそのまま対応しています。
つまり §5 から §8 は、ばらばらの前置きではありません。どこから始めるか(§5)、過去の哲学をどう扱うか(§6)、どう調べるか(§7)、どんな順序で進めるか(§8) が順に決まり、最後に一冊の設計として組み上がる、ひとつながりの準備です。
ただし Step 00 で見たとおり、第二部は公刊されませんでした。 ですから私たちが実際に読めるのは、解体の構えまでであり、その実行は残されたままです。
具体例
ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。
私たちは「主観」と「客観」という言葉を、ためらいなく使います。「それはあなたの主観でしょう」「もっと客観的に見よう」。日常会話でも通じます。
しかしこの区別は、いつ、どういう問いに答えるために作られたのでしょうか。ほとんどの人は答えられません。それでも困りません。使えているからです。
そして使えているからこそ、私たちはこの区別を世界のほうにもともとある切れ目だと感じます。作られたものだという感覚は、もう残っていません。
この例が示しているのは、受け取った枠組みは、使えているあいだ出どころを問われず、そのまま自明になるという一点だけです。主観と客観の区別そのものについてハイデガーが何を言うかは、この Step では扱いません。
論証を整理する
問い
存在への問いを実際に進めるには、どんな準備と方法が必要なのか
前提
基礎存在論は現存在の分析に求められる(Step 04 / §4)
しかし調べる私たち自身が、すでに何らかの見方を身につけている
四つの決定
§5 どこから始め、何を目指すか
→ 平均的な日常性から始める
(特別な状態から始めると、得た構造がそのつどのあり方か区別できない)
→ 分析は準備的。その先に「存在了解の地平としての時間」という課題を置く
§6 過去の哲学をどう扱うか
→ 伝統は手渡すと同時に、手渡したものの出どころを覆い隠す
→ 覆い隠された枠組みは、疑われない前提として働く
→ だから解体(Destruktion)が要る。ただし破壊ではない
→ 解体はカント・デカルト・古代へ向かい、時間の問題を導きの糸とする
§7 どう調べるか
→ §6 が問題にしたのは、枠組みが事柄を覆うことだった
→ だとすれば方法は、枠にはめ込まないものでなければならない
→ それが現象学。立場の名ではなく方法の名
§8 どんな順序で進めるか
→ 第一部(現存在と時間)/第二部(存在論の歴史の解体)
→ §6 の解体は第二部で実行される計画だった
→ ただし第二部は公刊されていない(Step 00)
結論
四つは別々の前置きではなく、「調べる」という一つの作業を
どこから始めるか・過去の哲学をどう扱うか・どう調べるか・どんな順序で進めるか、
この四つを順に決めていく、ひとつながりの準備である
次の問い
では、準備の整った現存在の分析は、実際に何から始まるのか
重要語
- Destruktion(デストルクツィオーン / 解体): 受け取った枠組みの層をはがし、それがもともと何に答えるものだったのかを測り直す作業。破壊ではない。 §6 は否定的な意味をはっきり退けている。
- Phänomenologie(フェノメノロギー / 現象学): それ自身を示すものを、それ自身から示されてくるとおりに見えるようにさせる方法。立場の名ではなく方法の名。
- 平均的な日常性: とりたてて何ということもない、いつものあり方。§5 が現存在の分析の出発点として選ぶ状態。
- Existenz(実存) / Dasein(現存在) / Fundamentalontologie(基礎存在論): Step 04 から継続。
誤解しやすい点
-
解体は破壊ではありません。 §6 は「伝統を振り落とす」という否定的な意味を明示的に退けています。「ハイデガーは過去の哲学を全部否定した」という読みは、§6 が先回りして断っている読みです。
-
デカルトやカントを「間違っていた」と切り捨ててはいません。 §6 の見立ては、彼らがどこまで進み、どこで止まったか、そしてなぜ止まったかを測るものです。カントについては、時間の次元へ向けてある程度まで進んだと評価しています。
-
「伝統は嘘だから捨てよう」でもありません。 問題にされているのは、伝統の内容が偽であることではなく、出どころが見えなくなったまま前提として働いていることです。
-
「時間が地平である」がここで証明されるわけではありません。 §5 と §6 が置くのは、そこへ向かうという課題と、存在の理解にすでに時間が入り込んでいたという指摘までです。時間性が実際に何であるかは、この本のずっと後で扱われます。ここで結論を先取りして読まないでください。
-
現象学は「主義」ではありません。 どういう中身を主張するかではなく、どう扱うかの手順です。
-
現象学は「先入観をゼロにする方法」でもありません。 §7 が与えているのは、まっさらな状態になるための手続きではなく、何をどう見るかを、こちらの理屈のほうで先に決めてしまわないという進め方です。
-
これは「哲学は科学より偉い」という話ではありません。 Step 03・Step 04 と同じ注意です。ここで問われているのは、どの順番で手をつけるかであって、優劣ではありません。
自分で考えてみる
- あなたが仕事や生活で「当たり前」として使っている区別を一つ選び、それがいつ、どういう必要から作られたものかを調べてみてください。調べられますか。
- その区別を使わずに同じことを説明しようとすると、どこで困りますか。
次のStepへ
準備が整いました。どこから始めるかは、平均的な日常。過去の哲学をどう扱うかは、解体(破壊ではありません)。どう調べるかは、現象学。どんな順序で進めるかは、第一部と第二部。
序論はここで終わります。次から第一篇です。
では、いよいよ現存在の分析そのものに入ります。しかし、最初の一歩をどこに置くかがまだ決まっていません。日常を見るといっても、何を手がかりに見ればよいのでしょうか。
ここでハイデガーは、分析に入る前にもう一つだけ、この存在者について確認します。そもそもこの存在者は、どういう仕方で「ある」のか。 机や石と、どこが違う仕方で「ある」のか。
次の Step 06 では、現存在の存在の仕方について、ハイデガーが最初に置く二つの規定を見ます。
出典・参考資料
本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-05-evidence.md を正本とします。
以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。
また、本文中に引用形式(>)で置いた段落は、下に挙げた各節が述べている内容を本連載が日本語で要約したものであり、原典の逐語訳ではありません。
REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。
- 序論 §5(H. 15-19) — 現存在の分析を平均的な日常性から始めること。この分析が準備的なものであること。存在了解の地平として時間を取り出すという課題が置かれること
- 序論 §6(H. 19-27) — 現存在が歴史のなかにあること。伝統が手渡すと同時に覆い隠すこと。存在論の歴史の解体という課題。解体が否定的な意味を持たないこと。解体が向かう先としてのカント、デカルト、古代の存在論。古代の存在論が存在を「いま目の前にそろっていること」として理解し、時間の特定のあり方を手がかりにしていたこと
- 序論 §7(H. 27-39) — 研究の方法としての現象学。それ自身を示すものを、それ自身から示されてくるとおりに見えるようにさせるという規定。「事象そのものへ」
- 序論 §8(H. 39-40) — 本書全体の計画。第一部と第二部の構成。第二部が存在論の歴史の現象学的な解体にあてられており、その三つの区分が §6 の挙げる三つの行き先(カント/デカルト/古代)に対応すること(第一部の計画題および第二部が公刊されなかったことは Step 00 で既出)
参考資料(本文に直接対応する引用はありません)
- REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
- REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
- REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。