Step 01 「ある」という当たり前を、なぜもう一度問うのか
このStepで答える問い
なぜ今さら「存在とは何か」という問いを、もう一度やり直す必要があるのか?
まず3行でいうと
- この問いは、古代ギリシャでプラトンやアリストテレスが本気で取り組んだ問題だった。その後に姿を消したのは、実際に探究される主題としての問いのほうである。
- ところがその後、「存在」は 最も普遍的だから/定義できないから/自明だから、あえて問う必要はない、とされていった。
- ハイデガーは §1 で、この三つを一つずつ検討する。三つとも、問いを閉じる理由になっていないどころか、かえって問いを要求している——これが「問い直しが必要だ」という主張の中身である。
前のStepから
Step 00 では、『存在と時間』という本の全体の地図を見ました。
- 存在者(Seiendes) と 存在(Sein) は違う。存在は、机や猫と並んでもう一つ数えられる何かではない
- 存在そのものは直接つかめないので、「ある」をうっすら理解しながら生きている 現存在(Dasein) の側から調べる
- その分析は最終的に時間へ向かう
- そしてこの本は、当初の計画の途中で中断している
ここまでは「これから何が起きるか」の見取り図です。
まだ分かっていないことが一つあります。
そもそも、なぜこの問いを立て直さなければならないのでしょうか。「存在とは何か」——たしかに大きな問いには聞こえます。しかし、大きく聞こえることと、いま取り組む必要があることは別です。
哲学の歴史は二千年以上あります。その間、誰もこの問いを扱わなかったとは考えにくい。だとすれば、ハイデガーは何を「やり直す」と言っているのでしょうか。
今回なぜこの問題が必要なのか
『存在と時間』の序論は、いきなり存在の分析から始まりません。
最初の §1 が扱うのは、「この問いをやり直す必要が、そもそもあるのか」 という一段手前の問題です。
これは形式的な前置きではありません。もし「存在とは何か」が、すでに答えの出ている問いか、あるいは答える必要のない問いであれば、この本の残り全部が不要になるからです。本書は自分の存在理由から書き始めている、と言ってもかまいません。
原典で起きていること
『存在と時間』は、プラトンの対話篇『ソピステス』の一節を巻頭に掲げて始まります。
そこで語られているのは、おおよそ次のような事情です。あなたがたは「ある」という語を使うとき、それで何を意味しているのかをずっと前から知っているはずだ。私たちもかつては分かっているつもりだった。しかし今は、途方に暮れてしまっている——。
この引用のすぐあと、§1 が始まる手前で、ハイデガーは短く二度問い返します。
では、今日の私たちはこの問いに答えを持っているだろうか。 持っていない。 では、せめて「分からない」と途方に暮れてはいるだろうか。 それもしていない。
ここに落差があります。プラトンたちは少なくとも途方に暮れていました。分からない、という手応えがあった。今日の私たちには、その手応えすらない。だから、あるとはどういうことかへの問いを、あらためて立てなおさなければならない——本書はこの宣言から始まります。
そして §1 の本文が、この事態を引き取ります。この問いは今日、問われなくなっている。答えられないまま残されたのではなく、問うべき主題であること自体が見えなくなったのです。
なぜそうなったのか。ハイデガーは §1 で、この問いを不要とみなす考え方を三つ取り上げ、順に検討していきます。
本連載では、この事態に後年定着した呼び名を、ここでは使いません。1927年の §1 が述べているのは、問いが問われなくなってきたという事態そのものだからです。
普通の日本語で説明すると
思い込み1:「ある」は最も普遍的だから
「ある」は、あらゆるものについて言えます。机についても、猫についても、数についても、昨日の出来事についても言える。これ以上広い言葉はありません。
だから、こう考えたくなります。最も広く通用する概念なのだから、それはもう十分に分かっている概念のはずだ。
ハイデガーはここを否定します。
「ある」の広さは、ふつうの「分類の広さ」ではないからです。「動物」は「猫」より広い。しかしそれは、猫も犬も馬も動物という一つの種類の中に収まるという意味での広さです。「ある」の広さはそれとは違います。「ある」は、何かを収める種類の名前ではありません。中世の存在論はこれを「あらゆる分類を超え出るもの」と呼びました。ハイデガーはその呼び名を引きながら、この広さが分類の広さを超えていることを確認します。
そして結論を反転させます。「ある」が最も広い概念だということは、それが最も明るい概念だということを意味しない。むしろ最も暗い概念なのだ、と。
思い込み2:「ある」は定義できないから
「ある」は定義できない。これはよく言われることで、しかも正しいとハイデガーは認めます。
ただし、そこから引き出される結論のほうが間違っている、と言います。
私たちがふだん使う定義のやり方は、だいたい決まっています。より広い枠に入れて、その枠の中での違いを言う。
しかし「ある」には、それを入れるべき「より広い枠」がありません。「ある」より広いものが存在しないからです。だからこのやり方では定義できない。ここまではそのとおりです。
問題はその先です。定義できないことは、問う必要がないことを意味するでしょうか。
しません。むしろ逆です。定義という手続きでは届かないと分かったのなら、「では、あるとはどういうことか」は、別の仕方で問い直されなければならない。定義の不可能性は、問いを閉じる理由ではなく、問いを開き直す理由になります。
思い込み3:「ある」は自明だから
三つ目は、私たちの日常にいちばん近いところにあります。
私たちは毎日「ある」「である」を使っています。ハイデガー自身が §1 で挙げている例で言えば、「空は青い」「私はうれしい」。どちらも、誰かに説明してもらう必要はありません。子どもにも通じます。
だから、こう思われてきました。誰にでも通じるのだから、これ以上考える必要はない。
ハイデガーはここでも向きを変えます。
誰にでも通じるという平均的な分かりやすさが証明しているのは、むしろ「分かっていない」ことのほうだ、と。
私たちは、何かに関わるたびに、自分自身について考えるたびに、この語を使っています。使えている。にもかかわらず、それが何を意味しているのかは言えない。この落差は、「小さな宿題が残っている」という程度のことではありません。私たちが何かと関わるときには必ずこの語がはたらいているのですから、落差は関わりのすべてに及んでいます。
つまり、日常のいちばん手前に、解かれていない謎が置かれたままになっている。それが §1 の見立てです。
具体例
ここからは、理解を助けるために本連載が置いた例です。ハイデガー自身の例ではありません。
思い込み2について。 「机とは何ですか」と聞かれたら、答えられます。「家具の一種で、物を置いたり作業したりするための平らな面を持つもの」。家具というより広い枠に入れて、その枠の中での違いを言っています。これが定義のふつうの形です。
では「あるとは何ですか」ではどうでしょう。「ある」を入れるべき、より広い枠が見つかりません。「あるものの一種で……」と言い出した時点で、すでに「ある」を使ってしまっています。
思い込み3について。 自転車に乗れる人が、乗り方を言葉で説明できるとはかぎりません。ペダルを踏む順序、体重の移動、ハンドルの角度——できているのに、言えない。
この例が示しているのは、「使えること」と「それが何であるかを言えること」は別だ、という一点だけです。「ある」を理解しているとはどういうことか、についての説明ではありません。そこはまだ、この Step では開かれていません。
論証を整理する
問い
なぜ「存在とは何か」を、あらためて問い直す必要があるのか
前提1
この問いは古代ギリシャで真剣に問われ、答えを求めて途方に暮れられていた
前提2
その後、この問いを不要とする三つの考え方が定着した
(a) 最も普遍的だから
(b) 定義できないから
(c) 自明だから
推論
(a) 「ある」の広さは分類の広さではない。広いことは明るいことを意味しない
→ むしろ最も暗い概念である
(b) 定義できないのは正しい。しかし定義できないことは問う必要がないことではない
→ かえって別の仕方で問うことを要求する
(c) 誰にでも通じるという平均的な分かりやすさは、分かっていることの証明ではない
→ 使えるのに言えないという落差が、そこに謎があることを示している
結論
三つとも問いを閉じる理由になっていない。
「あるとはどういうことか」という問いは、あらためて立て直されなければならない
次の問い
では、その問いはどのように立てればよいのか
重要語
- Sein(ザイン / 存在): 個々のものについて「ある」と言われるときの、その「あるということ」自体。数えられる物ではない。(Step 00 から継続)
- Seiendes(ザイエンデス / 存在者): 机・猫・私など、指を差すことができ、数えることができる個々のもの。(Step 00 から継続)
- Seinsfrage(ザインスフラーゲ / 存在への問い): 「あるとはどういうことか」という問いそのものを指す言い方。本書の序論第一章の表題に現れる。
誤解しやすい点
-
「昔の哲学者は存在について考えてこなかった」ではありません。 むしろ逆です。古代ギリシャでは真剣に問われ、答えが出せずに途方に暮れられていました。問いが不要とされるようになったのは、そこで得られたものが、疑われない前提に変わっていったからです。「考えなかった」のではなく、「考え終わったことにされた」——この緊張が §1 の出発点です。
-
「定義できない」は「無意味だ」ではありません。 ハイデガーは定義できないこと自体は認めています。彼が拒否するのは、そこから「だから問わなくてよい」へ進む一歩のほうです。
-
「自明だ」と言えることと、「分かっている」ことは同じではありません。 §1 の反転はここにあります。誰にでも通じることは、内容が明らかであることの証明にはなりません。
-
この Step ではまだ答えは出ません。 §1 が示すのは「この問いは立て直されなければならない」という必要性までです。「では存在とは何か」への答えは、ここでは一行も出てきません。
自分で考えてみる
- 「ある」を、より広い分類に入れて定義しようとすると、どこで行き詰まりますか。実際に一度、書き出してみてください。
- 毎日使えているのに、いざ説明しようとすると言葉に詰まる語は、「ある」のほかにありますか。それは「ある」と同じ種類の詰まり方でしょうか。
次のStepへ
「この問いは立て直さなければならない」——ここまでは分かりました。
しかし、「立て直す」とは具体的に何をすることでしょうか。
問いは、口に出しさえすれば問いになる、というものではありません。「存在とは何か」と唱えるだけでは、どこから手をつければよいのかが決まりません。答えを探す前に、探すべき場所が決まっていないからです。
だとすれば、次にやることは一つです。「問う」という行為そのものを分解して、問いがどんな部品でできているのかを確かめること。
次の Step 02 では、問いの中身ではなく、問いの形を見ます。
出典・参考資料
本文の各主張と一次資料の対応関係は、memo/evidence/being-and-time/step-01-evidence.md を正本とします。
以下の「H.」は、ドイツ語原典(Niemeyer社版)の各ページ余白に付されている標準の頁番号です。翻訳書にも同じ番号が併記されているため、どの版からでも同じ箇所をたどれます。
REF-01: Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer.(1927年公刊) 本Stepで根拠として用いた箇所は次のとおりです。
- 巻頭(序論 §1 の直前) — プラトン『ソピステス』の一節が本書の冒頭に掲げられていること。および、それを受けた二つの問い返し(今日この問いに答えを持っているか/せめて途方に暮れてはいるか)と、問いを立てなおすという宣言
- 序論 §1(H. 2-4) — 存在への問いをあらためて反復することの必要性。今日この問いが問われなくなっていること。問いを不要とみなす三つの考え方(最も普遍的である/定義できない/自明である)と、その一つずつへの反論。「空は青い」「私はうれしい」という例
巻頭部分については、余白の H頁番号を本連載では主張しません(一次資料で確認できていないため)。本書を開いて最初のページ、序論 §1 が始まる手前、と特定できます。
参考資料(本文に直接対応する引用はありません)
- REF-03: Michael Wheeler, “Martin Heidegger” (Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2020年版) — 論点の配列が現在の標準的な理解から外れていないかの検証に使用。
- REF-04: 『存在と時間』(岩波文庫、熊野純彦訳) — 日本語訳語の対比のための参照。
- REF-05: 『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳) — 日本語訳語の対比のための参照。